山歩き・不逞 其の七


山歩きと韓国
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義烈団と朝鮮革命宣言

 「朝鮮革命宣言」原掲載ブログ
1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した。

KBS歴史スペシャルより
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朝鮮革命宣言

『朝鮮革命宣言』表紙
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大審院作成日訳全文

<原史料は『朴烈・金子文子裁判記録』大審院所蔵・80年後に翻刻>


朝鮮革命宣言(訳文)<1925年朴烈公判記録に添付された文献>
一、強盗日本が我国号を無くし政権を奪ひ吾等の生存的必要条件を皆剥奪したり。経済の生命たる山林、川沢、鉄道、鉱山、漁場乃至小工業原料迄悉く奪ひ、一切の生産機能を刃を以て切り、斧を以て絶ち、土地税、
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家屋税、人口税、家畜税、百一税其の他各種雑税が逐月増加して血液の有る丈け悉く吸収され、若干の商業家等は日本の製造品を朝鮮人に売買する仲介人となりて漸々資本集中の原則の下に於て滅亡するのみ。大多数人民即ち一般農民は血汗を流して土地を耕作して終年所得を以て家族の口糊を凌ぐ丈けの余裕も出来得ずして、吾等を殺食し居る日本強盗に提供して彼を肥しやる永世の牛馬となるのみか、其の牛馬の生活も許さざるべく日本移民が年々高度の速率を以て増加し、下駄足に踏まれ吾民族は足踏む土地も無くして山に野に西間島に北間島に西伯利亜の荒野に駆逐せられ餓鬼となり流鬼となるのみ。


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強盗日本が憲兵政治、警察政治を励行して我民族の行動を寸歩も任意に為さしめず、言論、出版、結社、集会の一切の自由を失ひ、苦痛と憤恨に堪えざるも、唖者の腹痛の如く幸福と自由の世界には盲者同様子女には日語を国語とし、日文を国文とする奴隷養成所の学校に収奪し、時に朝鮮歴史を読ませるときには檀君を素戔鳴尊の兄弟なりと偽り、

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三韓時代漢江以南は原日本の領地なりと称する日本人の作りたる儘を読ましめ、新聞又は雑誌には強盗政治を賛美する日本化奴隷的文字のみ記載しあり、稍々気概ある子弟は環境の圧迫に依り厭世絶望の堕落者になるか又否らざれば陰謀事件の名称の下に監獄に拘留せられ周穿(両股に棒を挟み圧する拷問)、枷鎖(重き板の中央に穴を穿ち其の穴に頭部を入るるもの)及烙刑鞭撻、電気烙針刺、手足を縛して釣り下げる、鼻に注入、生殖器針刺、其の他所有悪刑即ち野蛮専制国の刑罰辞典にもなき刑を受け、僥倖にして獄門を出ずるにしても終身不具廃疾となり、然らざるものにありても発明創作の本能は生活の困難に依り断絶せられ、進取活発の気象は周囲の圧迫に依り消滅せられ、苦情も言ひ得ざる様各方面の束縛、鞭笞駆迫圧制を受け、環海三千里が一個の大監獄となりて、我が民族は全然人類の自覚を失ふのみならず自動的本能をも失ひ、奴隷又は機械となりて強盗の使用品になるのみ。強盗日本が我等の生命を草芥視し、乙巳以後十三道に義兵起るや各地方に日本軍隊の暴行は枚挙する能はず、最近三月一日独立運動以後木原宣川国内各地より北間島、西間島、露領沿海州各州に至る迄居民を屠戮し、村落を焼き払ひ財産を略奪し、
婦女を汚辱せしめ、首を切り、生きたる儘を埋め、火を以て焼殺し或は体は二つ三つに切り離し、児童に悪刑を加へ、婦女の生殖器を破り、出来得る限り惨酷なる手段を用ヰて恐怖と戦慄を以て我が民族を圧迫して人間を生きたる死骸を為さしめつつあり。以上の事実に依りて我等は日本強盗政治即ち異族統治が我朝鮮民族生存上の敵たるを宣言すると同時に、吾等は革命手段を以て敵たる強盗日本を殺伐するを以て正当の手段なるを宣言するものなり。

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二、内政独立又は参政権或は自治を運動する奴等は何人なりや。汝等が東洋平和韓国独立保全等を担保する盟約が其の墨痕乾かずして三千里の境土を蚕食せられたる歴史を忘却し居るや。朝鮮人民生命財産自由保護、朝鮮人民幸福増進等が申明したる宣言を為すや、時を移さずして二千万生命の地獄に落ちたる実際の状況を見ざりしや。三月一日運動以後に強盗日本が我等の独立運動を緩和せしむる為
宋秉畯、閔元植等一二の売国奴を操縦して如斯狂論を称しめたるものなれば、之に附和するものは盲人にあらざれば奸族なり。縦し強盗日本が果して寛大なる度量ありて慨然として是等の要求を許諾するにせよ所謂内政独立を得、各種の利権を取戻すにあらざれば朝鮮民族は一般に餓鬼になるのみならず又参政権を獲得するにせよ自国の無産階級の血液迄搾取する資本主義強盗国の殖民地人民となりて若干奴隷代議士の選出を以て餓死の禍を救ひ得るや。自治を得るにせよ如何なる種類の自治を問はず日本が其の強盗的侵略主義の標的たる帝国なる名称が存在する以上は、其の下に附属せらるる朝鮮人民が自治の虚名を以て民族的生存を維持し得るや。
例令強盗日本が突然仏様の心を以て総督府を撤廃し、各種の利権を吾等に還附し、内政外交我等の自由に任せ、日本の軍隊警察を一時に撤廃し、日本の移住民を

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一時に召還して虚名の統治権のみを存在せしむるにしても、我等の過去の記憶が全然消滅するにあらざれば、日本を宗主国として奉戴することは恥辱の名詞を知る人類としては難忍難事なり。日本強盗政治の下に文化運動を称へるもの何人なりや。文化産業と文物、物の発達したる総積を指したる名詞なれば、経済剥奪の制度の下に生存権を奪はれたる民族は其の種族の保全さへ疑問なるに、況や文化発展の可能性ありと云ふべきや。衰亡したる印度族、猶太族は文化ありと雖這は金銭の力を以て其の祖先の宗教的遺業を継続し、其の土地の広大、人口の衆を以て上古の有由発達したる余沢を保守し得たる所以にして、蛇蝎犲狼の如く人血を吸収して骨髄迄も咬まるる強盗日本の口に嵌り込みたる朝鮮の如き地位に於て文化の発展又は種族保守を存し得たる例あるや。
検閲押収所有圧迫中に幾個の新聞雑誌まで文化運動の木鐸と自名し、強盗の心理に反せざる言論位を言唱して是を以て文化発展の過程と見るならば、其の文化発展が却て朝鮮の不幸なりと云ふべし。
以上の理由に依り吾等は吾等の敵たる強盗日本と妥当せんとするもの即ち内政独立自治運動、参政権論者又強盗政治の下に寄生を甘ずる主義を持つもの即ち文化運動者等は何れも我敵なるを宣言す。
三、強盗日本を駆逐すべき主張の内に尚左の如き論者あり。第一は外交論なり。李朝五百年文弱政治が外交を以て護国の長策と認め、
其の末世に最甚しく甲申年以来維新党守旧党の盛衰が殆んど外援の有無に依て決せらるる為政者の政策は、

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唯甲国を引いて乙国を制するに過ぎず、其の依頼の習性が一般政治社会に伝染せられ甲午甲辰両戦役に日本が数十万の生命と数億万の財産とを犠牲にして清露両国を排斥し、朝鮮に対して強盗的侵略主義を貫徹せむとするに際し、我朝鮮の祖国を愛し民族を救ふと称する人等は一剣一弾を以て昏庸貪暴なる官吏又は国賊を討つこと能はずして照会文位烈国公使館に寄せ、長書を日本政府に寄せて国勢孤弱を哀訴して国家存亡、民族死活の大問題を外国人又は敵国人の処分のみに仰ぎたり。
而して乙巳年条約庚戌年併合即朝鮮と云ふ国号ありて以来数千年間初めて受くる恥辱に対し、朝鮮民族の憤怒的表示として僅に哈爾賓の銃、鐘峴の剣、山林儒生の義兵あるのみ。嗚呼、過十年の歴史たるや、勇者にして之を見れば唾罵すべく、仁者にして之を見れば傷心するのみ。然るに国亡以後海外に出でたる某々志士等の思想は何よりも外交を以て唯一の能事とし、国内人民の独立運動煽動方法も未来の日米戦争、日露戦争等の機会に来すべしと論ずるもの殆んど多し。最近三月運動に一般人士の平和会議国際聯盟に対する過信の宣伝が却て二千万民衆の奮闘前進の意義を打消したる媒介物たりしのみ。第二は準備論なり。乙巳条約の当時列国公使館に雨の如く降り投げたる紙片を以て例したる国権を扶持する能はず。丁未年の海牙密使も独立恢復の福音を齎すこと能はずして段々外交に対する疑問発生し戦争するに不如と判断せられたり。
然れども軍人もなし武品もなし、何を以て戦争を為すや。山林儒生等は春秋大義には成敗を計らずして義兵を募集し、大冠大衣を以て指揮の大将と為り、狩猟者の火縄銃隊を集めて朝鮮日本戦争の戦闘線に立つことになりたるも、稍新智識ありて新聞位読み
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時勢を斟酌すると云ふもの等は戦闘する勇気もなく、今日では日本と戦争すると云ふ事は妄動なれば、銃器も製造し、資金も調達し、大砲も求め、将官及士卒となるべき人物を養成したる後にあらざれば日本と戦端を開く能はずと主張せり。是即ち所謂準備論者にして戦争を準備すると云ふ派に属す。外勢の侵入加はるに伴ひ吾等の不足を一層に感覚せられ、準備論の範囲が戦争以外迄拡張せられ、教育の振興及商工業の発展は勿論、其の他部分迄準備すべき論に及べり。庚戌年以後各志士等が或は西北間島森林を辿り或は西伯利亜の寒風に晒され或は南北京方面に徘徊し或は米州布哇に渡り或は京郷に出没して十余里星霜内外外地に於て喉が裂くる迄準備論を唱へたり。然れども彼等の勢力の不足にあらずして実は其の主張を誤りたるものなり。強盗日本が政治経済両方面を以て攻め来り、経済が日々困難に陥り、生産機関は全部剥奪せられ、衣食の方策を断絶せられたる場合に際し、何を以て実業を発展し教育を拡張し、就中、何所に於て幾何の軍人を養成し得るや。養成せむとするも日本戦闘力の百分の一をも比較するを得べきや。実に一場の寝言にすぎず。以上の理由に依り吾等は外交論、準備論者羅の迷夢を捨てて民衆直接革命の手段を取るべきことを宣言する所以なり。

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四、朝鮮民族の生存を維持せむとするには強盗日本を駆逐すべく、強盗日本を駆逐するには革命を以てするのみなり。革命にあらざれば強盗日本を駆逐する方法なかるべし。而し我等が革命に従事せむとすれば如何なる方面より着手すべきや。旧時代の革命を以て論ずれば人民は国家の奴隷となりて、夫れ以上に人民を支配する上典即ち特殊勢力の名称変更するに過ぎず。換言すれば、乙の特殊勢力を変更するにすぎざりしものなり。夫れ故人民は革命に対して唯甲乙両勢力即新旧両上典の何れが仁にして何れが暴なりや、又何れが善にして何れが悪なりやを見て其の向背を定めるのみにして直接の関係は殆んど無かりし。
故に其の君主を誅して其の人民を愛撫するを以て唯一革命の宗旨とし、箪食壷漿を以て王師を迎へるが民衆革命の唯一の美談となりしも、今日の革命を以て論ずれば、民衆が民衆自己の為になす革命なるを以て民衆革命又は直接革命なりと称す。民衆直接の革命なるが故に其の沸騰膨張の熱度が数字上の強弱を比較する観念を打破し、尚其の結果の勝敗が常に戦争学上の定軌を逸出して無銭無兵の民衆を以て百万の軍隊、億万の富力を有する帝王も打斃し、外寇を駆逐す。依て吾等の革命の第一歩は民衆覚悟の要求なり。然らば民衆が如何にして覚悟をすべきや。民衆は神人聖人又は英雄豪傑が出て民衆を覚悟せしむべき指導に依て覚悟するものにあらず。民衆よ覚悟せよと熱叫する声に依りて覚悟するにあらず。

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唯民衆が民衆の為に一切の不平、不自然、不合理なる民衆向上の障碍を打破するを以て民衆を覚悟せしむる唯一の方法とす。換言すれば、即ち先覚の民衆が民衆全体の為に革命的先駆者たるを民衆覚悟の第一路とす。一般民衆が饑寒困苦に迫まり、納税の督促、私債の催促、行動の不自由と所有圧迫に依り生きむとしても生き得ず、死むとしても死する能はざる境遇に於て、其の圧迫の主因たる強盗政治の施設者を打倒し、強盗一切の施設を破壊して福音が四海に伝はり、万衆同情の涙を振つて人々が其の餓死以外に革命と云ふ一路が開かれたるを覚り、勇者は其の義憤に堪えず、弱者は其の苦痛に堪えずして皆此の道に集注して継続的に進行し、普遍的に宣伝して挙国一致の大革命となれば、奸猾残暴なる強盗日本が畢竟駆逐さるべし。 
夫れ故吾等の民衆を喚醒して強盗の統治を打倒し、吾が民族の新生命を開始せむとするには十万の兵を養成するより一擲の爆弾を要し、億千枚の新聞雑誌が一回の暴動に不如。民衆の暴力的革命が発生せざれば兎も角一旦発生したる以上は恰も懸崖より転下する岩石の如く目的地に到達せざれば停止することなし。
吾等己往の経過を以て見れば甲申政変は特殊勢力が他の特殊勢力と衝突する宮中一時の活劇にして、庚戌前後の義兵等は忠君愛国の大義の下に激起したる読書階級の思想なり。安重根、李在明等烈士の暴力的行動は熱烈なれども、後面に民衆的暴力の基礎力なく三月一日運動の万才の声に民衆的一致の意義が瞥現せられたるも是又暴力的中心を有せざりしものなり。民衆的暴力両者の中、其の一を欠けば如何なる轟然壮快の挙動なりと雖、雷電の如く終息さるるを免れず、朝鮮内に強盗日本の製造したる革命原因が山の如く積もれり。何時にても民衆の暴力的革命が開始せられ、独立せざれば生存せず、日本を駆逐するにあらざれば退かずとの口号を以て

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継続前進しなば目的を貫徹すべし。是は警察の剣、軍隊の銃又は奸猾なる政治家の手段を以て防止し得べきものにあらず、革命の記録は必ず惨絶壮絶なる記録となるべし。然れども退かば後面は暗黒の陥穽にして、進めば前面には光明の活路あり。我が朝鮮民族は其の惨絶荘絶なる記録を以て前進すべし。茲に於て暴力、暗殺、破壊、暴動の目的を大略挙ぐれば、
一、朝鮮総督及各官公吏
 二、日本天皇及各官公吏
 三、探偵奴、売国賊
 四、敵の一切施設物
此の外地方の紳士又は富豪にして特に革命運動を妨害したる罪跡なきも、若言動を以て我等の運動を緩和し或は中傷するものは吾等の暴力を以て衝るべし。日本人移住民は日本強盗政治の機械として朝鮮民族の生存を威脅する先鋒たるを以て是又吾等の暴力を以て駆逐すべし。

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五、革命の道は破壊より開拓すべし。然れども破壊の為に破壊するに非ず、建設するが為破壊するものなり。若建設を知らざれば破壊する道も知らず、破壊するを知らざれば建設する道も知る理なし。 建設と破壊と形式上に於て区別あるのみにして、精神上に於ては破壊即建設なり。之を論ずれば吾等日本勢力を破壊せむとする目的は 第一異民族統治を破壊するなり。如何となれば、朝鮮と云ふ上に 日本と云ふ異民族其のものが専政を行ひ、異民族専政の下に居る朝鮮は固有的朝鮮にあらざるを以て固有的朝鮮を発見する為異民族統治を破壊するものなり。
第二は特権階級を破壊するにあり。何となれば、朝鮮民衆の上に総督だの何だと云ふ強盗団の特権階級が圧迫し居れり。特権階級の圧迫の下に居る朝鮮民衆は自由的朝鮮民衆にあらざるを以て自由的朝鮮民衆を発見する為特権階級を打破すものなり。
第三は経済掠奪制度を破壊するにあり。何となれば、掠奪制度の下にある経済は民衆自己の 生活の為に組織したる経済にあらずして、民衆を殺食する強盗を肥やす為組織したる経済なれば、民衆生活を発展せしむる為経済掠奪制度を破壊する所以なり。
第四、社会的不平均を破壊するにあり。何となれば、弱者の上に強者あり、賎者の上に貴者あつて所有不平を抱いて居る社会は互いに掠奪、互いに剥削、互いに嫉妬仇視する社会となりて初めには少数の幸福を計る為多数の民衆を惨害したる結果、畢竟、少数の間にも惨害し、民衆全体の幸福が数字上零となるべし。故に民衆全体の幸福を増進せしむる為社会的不均等を破壊するものなり。
第五は奴隷的文化思想を破壊するにあり。何となれば、遺来の文化思想中宗教、倫理、文学、美術、風俗、習慣何れが強者の製造にして強者を擁護するものにあらざるや。


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一般民衆を奴隷化せしむる麻酔剤にあらざるや。少数の階級は強者と為り、多数の民衆は却て弱者と為りて不義の圧制に反抗し得ざれば、専ら奴隷的文化思想の束縛を受けたる所以なり。
若民衆的文化を提唱して其の束縛の鉄鎖を解くにあらざれば一般民衆の権理思想の薄弱となり、自由向上の興味が欠乏して奴隷の運命中に輪廻するのみ。故に民衆文化を提唱する為奴隷的文化思想を破壊する所以なり。換言すれば、固有的朝鮮を建設する為異族統治の略奪制度の社会的不平均の奴隷的文化思想の現象を打破するものなり。然らば破壊的の精神が即建設的主張なり、進めば破壊の剣となり、入れば建設の畑と為る。破壊する気魄なく建設する妄想のみあれば五百年を経過しても革命の夢も結ぶ能はず。茲に破壊と建設とが一にして一にあらざるを知るに於ては民衆的破壊の前には必ず民衆的建設あるを知るべし。現在朝鮮民衆は民衆的暴力のみを以て新朝鮮建設の障碍なる強盗日本勢力を破壊せざるべからざるを知り、朝鮮民衆が一団と為り、日本強盗が一団となりて彼が亡ぶにあらざれば我亡ぶべき一本橋上に行き会ひたるを知るならば、我二千万民衆は一致して暴力破壊の道に猛進すべし。
宣言の要旨は吾革命の大本営なり。暴力は我が革命唯一の武器なり。吾民衆の中に於て民衆と携手して不絶暴力暗殺、破壊暴力を以て強盗日本の統治を打倒し、吾生活に不合理なる一切の制度を改造して人類を圧迫すべからず。社会を以て社会を剥削すべからざる理想的朝鮮を建設するに在り。
四千二百五十六年一月 日
               義烈団



朝鮮総督府所属官公吏に
朝鮮総督府所属官公吏諸君、強盗日本の総督政治下に寄生する所の官公吏諸君、諸君は諸君の祖先より子孫に至る迄動かすべからざる朝鮮民族の一分子にあらざるか。若朝鮮民族の一分子なりとせば、仮令口腹と妻子との為強盗日本に奴隷的官公吏生涯の為すと雖、強盗日本の総督政治が我が民族の仇敵なるを知るべく、従て吾等の革命運動は即強盗日本の総督政治を破壊し朝鮮民族を救済せむとする運動なるを知るべし。之を知つたならば吾々の革命運動を妨害せざるべきをも信ず。然も尚之に妨害するものありとせば我々は斯る徒輩の生命を容赦せざるべし。
    四千二百五十六年一月 日
               義烈団

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by futei7 | 2011-11-09 01:43

図書新聞座談会「近代日本の歴史の曲がり角には朝鮮がある」2010年9月14日

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上記座談会は初出の掲載紙のみでしか読めません。
2010年11月13日号2989号、11月20日号2990号の購読注文は
図書新聞バックナンバー注文フォーム




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by futei7 | 2011-11-08 04:42

海をこえる100年の記憶

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by futei7 | 2011-11-07 00:40

<朴烈クロニクル・関連文献刊行録>


<朴烈クロニクル・関連文献刊行録> 

1版 2003.10.29 

朴烈に関わる文献整理のために作成  改定2版 11.4 『自我人』二号の事項、新山初代の居住地と死去の項を追加

★朝鮮語文献、東亜日報、日本語新聞報道、アナキズム機関紙誌に報じられている関連記事は今後の課題 <一部は立項>

★金子文子が主となる事項は含めていない。

★原テキストに固有名詞の誤記がある場合も、そのまま引用している。



2版 2006.8.15

『民団新聞』記事★★が主たる追加、『統一評論』論文一部引用

 

1902.2.3 聞慶郡麻城面梧泉里に生まれる

1908   書堂に通学 1910   公立普通学校入学

1915   京城公立普通高等学校入学、日本人教員から幸徳秋水 の天皇暗殺計画の話を聞き思想的影響を受ける

1919.3   3.1運動に参加、独立新聞発行、檄文を散布

1919.10   学校を中退、故郷に戻った後、東京へ渡る、新聞配達、製ビン工場、人力車夫、ワンタン屋、夜警、深川の立ちんぼう、中央郵便局の臨時配達夫

1920.中頃  血挙団を組織 

1921.10   義挙団に加入

1921.10   本郷駒込で友達と間借り生活

1921.11.29 黒濤会、結成

1921.11月末か12上旬頃 朴烈が京橋区南小田原町、柴田武福を訪ねる。その晩の朝鮮基督青年会館演説会での演説依頼をする

1921.12月上旬か4日、岩佐作太郎方忘年会に出席、柴田、杉本貞一、神田区仲猿楽町カフエ「豊生軒」に立寄り、吉原に泊まる。

翌朝、柴田方で雑談の末「外国には爆弾が在るかと」尋ねる、杉本が答えると「夫れは至極好い物だ、是非夫んな物が欲しい」

(杉本は後に出鱈目と供述)

1922.1.4  11名の連名で『朝鮮日報』紙、1月4日号に「同友会宣言」を発表

1922.2頃  上海臨時政府の一員、崔?鎮から破壊計画 を伝えられる。

1922.3.7  秋田雨雀を訪問、『秋田雨雀日記』280頁

1922.4   淀橋署に16日間検束。<英国皇太子来訪のため予防拘束>

1922.4-5 金子文子と同棲、東京府荏原郡世田谷池尻412 相川新作方二階 現在地 世田谷区池尻2-31-15から17、国道246号下り方向「池尻」バス停辺り

2003年10月、世田谷区立中央図書館調べ、現地確認

1922.7.10『黒濤』 創刊号、東京府下世田谷池尻412  黒濤発行所、発行人兼編集人兼印刷人 朴烈 「直接行動の標本」烈生

1922.6.5「ボロ長屋の二階より」金子活浪、朴烈「朴烈から」

1922.8.10 『黒濤』第二号 「此の態を見て呉れ」烈生 

「思ったこと二つ三つ」ふみ子 

「東支線駐屯の日本軍」烈生 

「ボロ長屋の二階から」金子文子 

「朴烈から」    

「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 

「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子

1922.8   信濃川虐殺真相調査会が組織され調査委員として参加

1922.8頃 新潟現地調査に赴く。<新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か>

1922.9.7  調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」朴烈は現地調査を報告

1922    ソウルの思想研究会から招待され「信濃川虐殺真相報告演説会」に出席

1922.9   ソウルで義烈団員周辺にいた、金翰と会う

1922.10.2  大島製鋼争議支援

1922.11   黒濤会分裂

1923.11   黒友会を組織

1922.11   再びソウルで金翰と会う。爆弾の件

1922.11.7頃  『太い鮮人』第一号 枠外に「フテイ鮮人」と記載

「×××××取締法案」朴烈

 「日本人の自惚れた朝鮮観に就いて」烈生

「破れ障子から」金子文子、朴烈 『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の

虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

1922.12.19 頃 『太い鮮人』第二号

「亞細亞モンロー主義に就いて」朴烈

 「所謂不逞鮮人とは」朴文子

「学者の戯言」烈生 

「破れ障子から」文子

去四日朴烈が京城から病魔に護衛されて帰ったりオマケに十五日許り寝込まれたので

スッカリ喰い違って四苦八苦の揚句ヤット今日印刷屋へ廻すべく漕ぎつけた

「朝鮮の詐欺共産党」烈生 

「朝鮮古代芸術を排す」烈生

1923.1   秘密結社、血拳団組織

1923.1   ソウルで金翰と会い爆弾入手依頼

1923.3   黒友会機関紙『民衆運動』朝鮮文、創刊 

1923.3.15  『現社会』第三号 世田谷池尻412 「××」烈生  

註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」

「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、

後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 

「在日鮮人諸君に」金子ふみ 

「朝鮮○○記念日」金子ふみ

「破れ障子から」文子

1923.3   金子文子と東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地に移る。

現渋谷区富ヶ谷1-28 NTT裏辺り 2003年5月 現地確認

1923.4   不逞社を組織

1923.4   東亜日報主筆、張徳秀への殴り込みで神田署に検挙される、

市ヶ谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘

1923.5.1  金子文子はメーデーに参加

1923.5   来日したばかりの金重漢に爆弾運搬依頼

1923.5.21  朴烈、新山初代を訪問、不逞社への入会を勧める。

本郷区駒込蓬莱町一八、現文京区向丘二丁目、2002.11確認

1923.5.27  不逞社第一回例会、朝鮮の運動がテーマ

1923.6    金重漢に爆弾の件を取り消し

1923.6.10  不逞社第二回例会、望月桂を招く

1923.6.17  不逞社第三回例会、加藤一夫を招く

1923.6.28頃 不逞社第四回例会、中西伊之助出獄歓迎会

1923.6.30  『現社会』第四号 

代々木富ヶ谷 「朝鮮の民衆と政治運動」朴烈

「朝鮮の衡平社運動に就いて」朴烈

「スッパ抜キ」バクレツ 

「或る会話」金子ふみ 

「破れ障子から」文 実は同志十名許りが……メーデーの夕方丁度にも再び裟婆へとオッポリ出された……

……メーデーの日、私は他四五名の同志と共に……愛宕署の御厄介になって……一夜を明かした……… 

府下代々木富ヶ谷1474 現社会社 省線原宿、市電渋谷下車 名教中学下 <現東海大附属高校>

1923.7.15  不逞社第五回例会、親日派の『東亜日報』記者を殴る

1923.8.3   黒友会主催「朝鮮問題演説会」神田基督教青年会館で開く

1923.8.10  黒友会、臨時例会、解散を決める、金重漢が爆弾計画の話を暴露 

1923.8.11  不逞社第六回例会、馬山のストライキの話題、金重漢と論争

1923.8.29  警視庁が新山初代を訪れ不逞社の動向を訪ねる   

1923.9.1  午前中、滝野川、高麗社にいる張祥重を訪問

1923.9.2  四ツ谷の布施弁護士を訪ねる

1923.9.3  朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束

1923.9    不逞社のメンバーが検挙され始める

1923.10.20 東京地裁検事局、治安警察法違反容疑で朴烈と不逞社メンバーを起訴

1923.10.20 『大阪朝日』記事<不逞鮮人の秘密結社大検挙>

1923.10.22 予審判事、予審尋問を始める

1923.10.24 朴烈への訊問、陳述を拒否

1923.10.27 新山初代、予審尋問で供述を始める

1923.11.27 新山初代、病死、危篤状態で獄外に出される、谷中法蔵院に墓碑

1924.1.24  金子文子、第六回予審尋問にて朴烈の爆弾入手意図と目的を供述

1924.1.30  朴烈第三回予審訊問にて金子文子の供述を認める。

「自分が話さないと不逞社の仲間に迷惑がかかる」

1924.2.2  朴烈第四回予審訊問

1924.2.3  朴烈第五回予審訊問

1924.2.4  朴烈第六回予審訊問

1924.2.5  朴烈第七回予審訊問

1924.2.15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴される

1924.2    朴烈論文「日本の権力者階級に与ふ」を獄中で執筆

1924.4.2  朴烈第八回予審訊問

1924.4.10  朴烈第九回予審訊問

1924.5.12  朴烈第十回予審訊問

1924.5.20  朴烈第十一回予審訊問

1924.7.1  『東亜日報』記事「韓?相は6.24に保釈出獄」「李小岩は1924.6.30早暁ソウルの鍾路警察に検束」

1924.12   論文「俺の宣言」執筆

1924.12   論文「働かずしてどしどし喰ひ倒す論」執筆

1925.3   論文「陰謀論」を執筆

1925.3.9  朴烈第十三回、十四回予審訊問

1925.5.1  朴烈第十五回予審訊問

1925.5.2  朴烈第十六回予審訊問

1925.5.3  朴烈第十七回予審訊問

1925.5.9  朴烈第十八回予審訊問

1925.5.29  朴烈第十九回予審訊問

1925.6.6  朴烈第二十一回予審訊問

1925.7.7  予審終結決定

1925.7.17  検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法73条と爆取罰則で起訴

1925.7.18  判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類・物品の授受禁止にする

1925.7.18  朴烈第一回予審訊問

1925.8.2  『朝鮮日報』夕刊、記事「不逞社事件予審を終わる」

1925.8.22  朴廷植、証人訊問、大邱地方法院尚州支庁

1925.9.3  朴烈第二回予審訊問

1925.9.5  朴烈第三回予審訊問

1925.9.20  朴烈テキスト<刑務所消息 不逞の烙印>『自我人』第二号掲載

1925.9.22  朴烈第四回予審訊問

1925.10.12 検事総長小山、大審院第二特別刑事部裁判長判事豊島に大審院公判に付すべきという意見書提出

1925.10.28 大審院、公判開始を決定

1925.11.11 接見禁止を解く

1925.11.12 朴烈、金子文子、山崎今朝弥を私選弁護人として選任

1925.11.14 朴烈、金子文子、布施辰治、上村進を私選弁護人として選任

1925.11.17 公判準備調書作成のため朴烈に訊問

1925.11.20 朴烈、金子文子、中村高一を私選弁護人として選任

1925.11.21 『東亜日報』記事「大審院、重大犯人の結婚式」

1925.11.25 布施弁護士、結婚届け三通を差入署名捺印を求める

1925.11.25 朴烈、金子文子の記事が解禁

1925.11.25 『東京日日新聞』夕刊<震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件>

<来月八九両日特別裁判開廷(本日解禁)罪の裏に女!躍動する朴烈が内縁の妻金子ふみ>

<予審免訴十五名><変転の運命から逆徒の友へ><惨苦の中に真っ赤な恋>

<検束で名物の朴夫妻><同志の新山初題は獄死><新山初代 肺患に冒されヤケの生活>

<審問は傍聴禁止 宣告のみ公開><朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿>写真

<大逆事件の首魁朴烈とその筆蹟>

1925.11.25 『東京朝日』夕刊<震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画>

<近く刑務所で正式の結婚><自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈>

1925.11末か12初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会

1925.12.3  朴烈、金子文子、晋直鉉を私選弁護人として選任

1925.12.6 『東亜日報』記事<正式結婚、手続き>

1925.12.7 『東亜日報』記事<結婚に関して>

1925.12.11 『朝鮮日報』記事<獄中結婚は風説>

1925.12.14 『東亜日報』記事<書面上の結婚だけだろう>

1925.12.16 <鑑定人の報告>市ヶ谷刑務所内診察室に於て被告と初めて対顔

………「私はパックヤールです。併し私は鑑定の通知書を送り返し、

同時に鑑定を拒否する旨を既に大審院に申し送ってあるのに、

それに対しまだ何等の返事を受取りません故に私は大審院より何等かの返事を受取るまでは鑑定を受けることは断然謝絶します」

1925.12.22 論文「所謂裁判に対する俺の態度」執筆

1926.1   「朴烈君のことなど 冬日記」中西伊之助『文芸戦線』掲載

1926.1.18  朴烈、裁判長に対し法廷での四条件を提出

1926.1.19  『朝鮮日報』記事<条件を提出したこと>

1926.1.20  『東亜日報』記事<条件を提出したこと>

1926.2.13  朴烈、朝鮮大邱の弁護士、金完燮に公判出席を要請 

1926.2.25  朴烈、朝鮮大邱の金完燮を私選弁護人とする届け

1926.2.26  第一回公判、大審院、人定質問

1926.2   再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援

1926.2.26  文子手記「二十六日夜半」執筆

1926.2.27  第二回公判、金子文子手記朗読、検事論告死刑求刑

1926.2.28  第三回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

1926.3.1  第四回公判、弁論文子の最終陳述、朴烈はしなかった

1925.3.4  『東亜日報』社説「朴烈の思想行為と環境 牧野裁判長の観察」

1926.3.17 『朝鮮日報』社説「朴烈事件に鑑みて」安在鴻、執筆

1926.3.20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号  

在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。

後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか?

「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 

二月十六日午前九時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束十数名、

警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)

「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。

1926.3.23  結婚届けを出す

1926.3.25  死刑判決

1926.3.29 『大阪朝日新聞』

<恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子>

……判決後四日間、外界の何事も知らず市ヶ谷刑務所の独房で妻と夫も名ばかりで

会うこともならずただ黙々として静かな日を過ごしている、このごろの彼等への差入は、

朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は

朝は牛乳一合にパン一片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反し

て、文子は朝は鶏卵二つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は

晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文

子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をし

てきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっている

と、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨

県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か五分間変り果てた娘

の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、

一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第一日に着た

朝鮮礼装一揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が

完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身

の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着で

よいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の

最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝六時に起

き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、

……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語って

いました、……」 1926.3.30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」

1926.4.5  「恩赦」で無期懲役に減刑

1926.4.6  朴烈、千葉刑務所に移監

1926.4.6  朴烈、絶食を始める<「金子文子の自殺と恩赦前后の処遇」

布施文書には6日恩赦伝達後からと記されている>

1926.4.14  千葉刑務所長、絶食中止を説得

1926.4.15 『朝日新聞』記事<千葉刑に送られると朴烈は絶食を始める>

1926.5   「思出の朴烈君の顔」里村欣二『文芸戦線』掲載

1926.6   『朝鮮時論』創刊号、在朝鮮日本語雑誌「朴烈事件に鑑みて」の翻訳掲載

1926.7.23 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、

栃木駅から徒歩10分余り2003年7月23日 現地確認、刑務所跡を示す碑は無し、

舎房棟跡は文化会館正面入口前広場

1923.7.23以降 布施弁護士は朴列に面会、文子の死を伝えた瞬間に面会を打ち切り

1926.7.29  朴烈、金子文子の取調べ中の写真をめぐり怪文書が配布される

1926.8   不逞社のメンバーであった張祥重、鄭泰成が黒友会組織<『朴烈』より>

1926.8.11  立松懐清予審判事、快写真問題で引責辞職

1926.8.16 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く

1926.8.29 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る

1926.8.30 『京城日報』<文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と 

朴廷植釜山で語る>「釜山特電」獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取る

ため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子

朴烱來(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山

に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそ

ばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る、弟には身体の具合が悪

いというので面会ができなかったがいづれまた健康でも快復すれば面会に行きたいつ

もりです、文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが、警視庁から受取ってか

ら別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についている

でしょう、文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日

の取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう。写真のことについては

弟から送ってやるとのことで手紙は来ていましたが私はまだ見たこともありません、子供

は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通譯のために連れて行ったまでで

す。朴廷植は直に北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと

1926.9.14  『東京日日』記事「石黒鋭一郎手記、快写真の件」

1926.9.20  司法省、快写真の経緯を発表、真相を認める

1926    『政争化したる朴烈問題 』江渡由郎、青年政治協会 (青年パンフレット 第3輯)

1926    『朴烈問題の批判』鶉山学堂

1926    『若槻内閣と不景気・朴烈事件と憲政会内閣』豊島新聞社

1926.12.24 今村東京地裁所長無罪を宣告されるも、検事控訴される

1927.2   秋山市ヶ谷刑務所所長、大審院懲戒裁判所で無罪確定 秋山所長、奥村看守長懲戒処分を受ける

1928   「強者の宣言」朴烈、『叛逆者の牢獄手記』行動社同人編に掲載

1934.12   「入獄中のアナキスト朴烈の動静」『特高月報』内務 省警保局保安課、

1935   「大逆事件犯人朴烈の思想転向」『社会運動の状況』内務省警保局

1935.4  「入獄中のアナキスト朴準植の思想転向」『特高月報』内務省警保局保安課、

1935.8.9  『東京日日』記事「朴烈転向、新聞雑誌の閲読禁止」

1936.8   小菅刑務所に移される

1938.9   「朴烈の所感」朝鮮総督府高等法院検事局思想部『思想彙報』第16号

1943.8    秋田刑務所に移される、大館支所か?
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by futei7 | 2011-11-05 13:46

朴烈クロニクル・関連文献刊行録 2

1945.10.27 朴烈、秋田刑務所大館支所を出獄、大館駅前で「出獄歓迎大会開かれる」

1946     『独立の指導者朴烈』鄭泰成、新朝鮮建設同盟宣伝部、国会図書館所蔵

1946?     『新朝鮮建国の指標:独立指導者 朴烈』 朝鮮半島における自由解放の指導者、

朴烈の獄中詩歌、在日朝鮮人同胞へのメッセージ、日本の新聞に対する声明等を収録した、

"独立指導者 朴烈"、及び、朴烈による新朝鮮建国に対する朴烈の信念・思想を収録した

"新朝鮮建国の指標"を収録。 University of Hawaii at Manoa 「Asia Collection,」

梶山コレクション所蔵

1946.12.25  『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房

1947.2.21「民団新間」創刊号発行。                  

1947.5.23 民団第二回大会。団長朴烈、副団長李康勲、元心昌。

1947.8.23 朴烈「三たび八月十五日を迎へて」『民団新聞』週刊13号、在日本朝鮮居留民団中央総本部★★

1947.8.30 朴烈「留日朝鮮学徒の進路」『民団新聞』週刊14号★★

1947.9.13 朴烈「主張第廿五回関東大震災」『民団新聞』週刊15号★★

…当時自ら「不てい鮮人社」と名乗った我々の同志も文字通り一網打尽に検挙されて有無を言わさず、全く投獄されてしまった。由来ゲーペーウー式の日本帝国主義的陰謀によって裁かれ、私は遂に死刑を宣告され、さらに彼等の勝手な判断によって終身の懲役に処せられ、さらにまた彼等帝国主義の世界戦争敗戦の結果として、二十三年余の獄中から、この明るい社会に出てきたのである。……

無署名記事「関東大震災廿五周年を迎えて」想起すれば当時大地震直後陸軍憲兵司令部の謀略に依り『朝鮮人三万名が日本無政府主義者と内応して日本襲撃に上陸して来た』と言う捏造のデマを廣島より全国に飛ばして置いてそれを口実にかかる不可抗力むの機会を逆用して日本軍部及青年団が白昼公然と国際社会の面前にかかる大事件を三日間も続けて敢行したのである……然しアナキスト系では、天変地異は不可抗力である。…本当の愛と相互扶助との懸念の下に、お互に相あわれむのみであった。…

1947.10月1、2日 民団第三回大会(大阪)団長朴烈。

1947年 張義淑と再婚

一九四八年八月一五日『新朝鮮革命論』朴烈、中外出版株式会社

目次

自序

第一章 思想立国

第一節世界は一なり

第二節 現実に徹する思想第

三節 共産党を語る第四節死に生くること

第二章建国の指標

第一節独立とは形式ではない

第二節具体的に建国の立地条件を究めよ

第三節戦線統一への方向

第三章青年と民族の運命

第一節立国の支柱としての青年

第二節操志ある青年

第三節高き文化の使徒青年

第四章生活革命運動の展開

第一節民族的欠陥の反省

第二節社会を発見せよ

第三節公式論、原則論を排す

第四節身を以て再起へ

付録一 三千万我等とともに罪あり

二 対日協力者戦争犯罪人等の処断に関する法案をめぐりて

三 祖国の正しき産業建設のために在日業界人の反省を促す

四 前科者、受刑者、現科者

五 祖国愛と国際的観念

六 世界の現実に学び、世界の現実に捉われる勿れ

七 われらは先ず道義の昂揚から

八 小児病的左翼陣の暴挙を排す

1948年11月20日 

『政党人に望む』発行人、朴義淑、東京都杉並区阿佐谷一丁目七四六番地、発行所、中野区野方町一丁目七三二番地、朴烈文化研究所

1949年4月2日 民団第六回大会、選挙に敗れて団長を辞任。   

1949年 朴烈は家族と共に韓国に向かう。李政権の国務委員となる

1950年4月 張義淑は二人の子、長男栄一と長女慶姫を連れて帰国

1950年6月25日 ソウルは南下した北朝鮮軍の動きにより混乱状況

1950年6月27日  張義淑、大元ホテルに止宿中の朴烈止連絡がとれたのは27日の未明。

「子供たちをつれて、すぐよその家へうつれ。今後連絡が絶えても、革命家の妻として、

恥ずかしく行動をせよ」朴烈はこれだけ言って電話をきった。たまりかねた張義淑が慶姫

(当時8ヶ月)を隣家にあずけ、栄一(2年4ヶ月)をつれて、大元ホテルまでたどりつくと部

屋には朴烈がひとり目をつむったまま座っていた。

「……国民のほとんどがソウルに残っているのに、おれだけ逃げられるか。帰れ」

…… 義淑は秘書に送られて桂洞まで戻る。夜になり雨が降り出した。

もう一度朴烈のところへ行こうと決心。……ホテルに出かけた。やっとたどりついたホテルに朴烈はいなかった。

…夜が更けるにつれ、砲声はいよいよ近く、機関銃が地底からのような音をひびかしている。

午前三時、砲声がやみサイレンが鳴った。北朝鮮軍が中央庁に入った合図にちがいない。

夜が明けると、幾千幾万とも知れぬ足音が聞こえ「人民共和国万歳」の叫びが伝わってくる。

……共産軍に捕らえられた朴烈の居所を察知しようとして西大門刑務所に出かけたのもそのころだった。

「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見より。朴烈、行方不明になる。

1960年1月   「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見『婦人公論』

1960年1月号掲載<再婚相手は東京 女子大で臼井ゼミの学生であった>

1963年3月、4月  「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』 

1966年6月   「共産主義者と私」朴烈、『統一評論』掲載

私は一時、日本で社会運動をおこそうと思い、政治団体を組織したことがあった。そして日帝の監獄にぶちこまれて苦労もしてみた。……

 私は共産主義者の幅広い度量とあたたかい同族愛に深く感動させられ、目頭が熱くなる時が一、二度ではなかった。…

 祖国と民族を憂えるすべての人々は、一切の外勢を排撃して、南北が力を合せて祖国の自主的統一を実現する大道を前進しなければならない。★★

1967年    『民団 在日韓国人の民族運動』鄭哲、洋々社

1972.6.30 『余白の春』瀬戸内晴美著

1973.7.23  ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地

1973.9.1  『朴烈』金一勉著、合同出版

1974.1.17  朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる

1975.8   「春一番」臼井吉見『展望』第200号掲載<解放後の朴烈と再婚、小説>

1976.3.20  山梨県東山梨郡牧丘町杣口の金子家の敷地で「金子文子の碑」除幕式

1977    『朴烈・金子文子裁判記録』再審準備会黒色戦線社<手書きのまま複製>

1981.6.22 栗原一男死去

1987.7  『運命の勝利者朴烈』復刻版 布施辰治 黒色戦線社

1988    『続・現代史資料アナーキズム』小松隆二編、みすず書房<訊問調書を活字化、

難波大助大逆事件、黒旗事件資料も収録>

1991.12.25 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社<本文は続・「現代史資料アナーキズム」の複製>

付録として大審院判決、減刑等の公判書類原本縮小パンフ、『黒濤』『太い鮮人』『現社会』の復刻、『連帯』誌

<山梨での碑の除幕式報告掲載> 

1976.4.15発行が刷り込まれている。

1996.12.5 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次、影書房

1999.9.15 「金子文子を支えた人々 栗原一男を中心に」佐藤信子『甲府文学』12

2002.7.23 「金子文子と布施辰治」シンポ開催

2003.3   『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』韓国語版刊行 『朴烈・金子文子裁判記録』、

『運命の勝利者朴烈』布施辰治、『朴烈』金一勉、『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次を主として参考にした。   
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by futei7 | 2011-11-04 14:11