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山歩き・不逞 其の七


山歩きと韓国
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<朴烈クロニクル・関連文献刊行録>


<朴烈クロニクル・関連文献刊行録> 

1版 2003.10.29 

朴烈に関わる文献整理のために作成  改定2版 11.4 『自我人』二号の事項、新山初代の居住地と死去の項を追加

★朝鮮語文献、東亜日報、日本語新聞報道、アナキズム機関紙誌に報じられている関連記事は今後の課題 <一部は立項>

★金子文子が主となる事項は含めていない。

★原テキストに固有名詞の誤記がある場合も、そのまま引用している。



2版 2006.8.15

『民団新聞』記事★★が主たる追加、『統一評論』論文一部引用

 

1902.2.3 聞慶郡麻城面梧泉里に生まれる

1908   書堂に通学 1910   公立普通学校入学

1915   京城公立普通高等学校入学、日本人教員から幸徳秋水 の天皇暗殺計画の話を聞き思想的影響を受ける

1919.3   3.1運動に参加、独立新聞発行、檄文を散布

1919.10   学校を中退、故郷に戻った後、東京へ渡る、新聞配達、製ビン工場、人力車夫、ワンタン屋、夜警、深川の立ちんぼう、中央郵便局の臨時配達夫

1920.中頃  血挙団を組織 

1921.10   義挙団に加入

1921.10   本郷駒込で友達と間借り生活

1921.11.29 黒濤会、結成

1921.11月末か12上旬頃 朴烈が京橋区南小田原町、柴田武福を訪ねる。その晩の朝鮮基督青年会館演説会での演説依頼をする

1921.12月上旬か4日、岩佐作太郎方忘年会に出席、柴田、杉本貞一、神田区仲猿楽町カフエ「豊生軒」に立寄り、吉原に泊まる。

翌朝、柴田方で雑談の末「外国には爆弾が在るかと」尋ねる、杉本が答えると「夫れは至極好い物だ、是非夫んな物が欲しい」

(杉本は後に出鱈目と供述)

1922.1.4  11名の連名で『朝鮮日報』紙、1月4日号に「同友会宣言」を発表

1922.2頃  上海臨時政府の一員、崔?鎮から破壊計画 を伝えられる。

1922.3.7  秋田雨雀を訪問、『秋田雨雀日記』280頁

1922.4   淀橋署に16日間検束。<英国皇太子来訪のため予防拘束>

1922.4-5 金子文子と同棲、東京府荏原郡世田谷池尻412 相川新作方二階 現在地 世田谷区池尻2-31-15から17、国道246号下り方向「池尻」バス停辺り

2003年10月、世田谷区立中央図書館調べ、現地確認

1922.7.10『黒濤』 創刊号、東京府下世田谷池尻412  黒濤発行所、発行人兼編集人兼印刷人 朴烈 「直接行動の標本」烈生

1922.6.5「ボロ長屋の二階より」金子活浪、朴烈「朴烈から」

1922.8.10 『黒濤』第二号 「此の態を見て呉れ」烈生 

「思ったこと二つ三つ」ふみ子 

「東支線駐屯の日本軍」烈生 

「ボロ長屋の二階から」金子文子 

「朴烈から」    

「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 

「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子

1922.8   信濃川虐殺真相調査会が組織され調査委員として参加

1922.8頃 新潟現地調査に赴く。<新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か>

1922.9.7  調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」朴烈は現地調査を報告

1922    ソウルの思想研究会から招待され「信濃川虐殺真相報告演説会」に出席

1922.9   ソウルで義烈団員周辺にいた、金翰と会う

1922.10.2  大島製鋼争議支援

1922.11   黒濤会分裂

1923.11   黒友会を組織

1922.11   再びソウルで金翰と会う。爆弾の件

1922.11.7頃  『太い鮮人』第一号 枠外に「フテイ鮮人」と記載

「×××××取締法案」朴烈

 「日本人の自惚れた朝鮮観に就いて」烈生

「破れ障子から」金子文子、朴烈 『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の

虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

1922.12.19 頃 『太い鮮人』第二号

「亞細亞モンロー主義に就いて」朴烈

 「所謂不逞鮮人とは」朴文子

「学者の戯言」烈生 

「破れ障子から」文子

去四日朴烈が京城から病魔に護衛されて帰ったりオマケに十五日許り寝込まれたので

スッカリ喰い違って四苦八苦の揚句ヤット今日印刷屋へ廻すべく漕ぎつけた

「朝鮮の詐欺共産党」烈生 

「朝鮮古代芸術を排す」烈生

1923.1   秘密結社、血拳団組織

1923.1   ソウルで金翰と会い爆弾入手依頼

1923.3   黒友会機関紙『民衆運動』朝鮮文、創刊 

1923.3.15  『現社会』第三号 世田谷池尻412 「××」烈生  

註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」

「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、

後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 

「在日鮮人諸君に」金子ふみ 

「朝鮮○○記念日」金子ふみ

「破れ障子から」文子

1923.3   金子文子と東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地に移る。

現渋谷区富ヶ谷1-28 NTT裏辺り 2003年5月 現地確認

1923.4   不逞社を組織

1923.4   東亜日報主筆、張徳秀への殴り込みで神田署に検挙される、

市ヶ谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘

1923.5.1  金子文子はメーデーに参加

1923.5   来日したばかりの金重漢に爆弾運搬依頼

1923.5.21  朴烈、新山初代を訪問、不逞社への入会を勧める。

本郷区駒込蓬莱町一八、現文京区向丘二丁目、2002.11確認

1923.5.27  不逞社第一回例会、朝鮮の運動がテーマ

1923.6    金重漢に爆弾の件を取り消し

1923.6.10  不逞社第二回例会、望月桂を招く

1923.6.17  不逞社第三回例会、加藤一夫を招く

1923.6.28頃 不逞社第四回例会、中西伊之助出獄歓迎会

1923.6.30  『現社会』第四号 

代々木富ヶ谷 「朝鮮の民衆と政治運動」朴烈

「朝鮮の衡平社運動に就いて」朴烈

「スッパ抜キ」バクレツ 

「或る会話」金子ふみ 

「破れ障子から」文 実は同志十名許りが……メーデーの夕方丁度にも再び裟婆へとオッポリ出された……

……メーデーの日、私は他四五名の同志と共に……愛宕署の御厄介になって……一夜を明かした……… 

府下代々木富ヶ谷1474 現社会社 省線原宿、市電渋谷下車 名教中学下 <現東海大附属高校>

1923.7.15  不逞社第五回例会、親日派の『東亜日報』記者を殴る

1923.8.3   黒友会主催「朝鮮問題演説会」神田基督教青年会館で開く

1923.8.10  黒友会、臨時例会、解散を決める、金重漢が爆弾計画の話を暴露 

1923.8.11  不逞社第六回例会、馬山のストライキの話題、金重漢と論争

1923.8.29  警視庁が新山初代を訪れ不逞社の動向を訪ねる   

1923.9.1  午前中、滝野川、高麗社にいる張祥重を訪問

1923.9.2  四ツ谷の布施弁護士を訪ねる

1923.9.3  朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束

1923.9    不逞社のメンバーが検挙され始める

1923.10.20 東京地裁検事局、治安警察法違反容疑で朴烈と不逞社メンバーを起訴

1923.10.20 『大阪朝日』記事<不逞鮮人の秘密結社大検挙>

1923.10.22 予審判事、予審尋問を始める

1923.10.24 朴烈への訊問、陳述を拒否

1923.10.27 新山初代、予審尋問で供述を始める

1923.11.27 新山初代、病死、危篤状態で獄外に出される、谷中法蔵院に墓碑

1924.1.24  金子文子、第六回予審尋問にて朴烈の爆弾入手意図と目的を供述

1924.1.30  朴烈第三回予審訊問にて金子文子の供述を認める。

「自分が話さないと不逞社の仲間に迷惑がかかる」

1924.2.2  朴烈第四回予審訊問

1924.2.3  朴烈第五回予審訊問

1924.2.4  朴烈第六回予審訊問

1924.2.5  朴烈第七回予審訊問

1924.2.15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴される

1924.2    朴烈論文「日本の権力者階級に与ふ」を獄中で執筆

1924.4.2  朴烈第八回予審訊問

1924.4.10  朴烈第九回予審訊問

1924.5.12  朴烈第十回予審訊問

1924.5.20  朴烈第十一回予審訊問

1924.7.1  『東亜日報』記事「韓?相は6.24に保釈出獄」「李小岩は1924.6.30早暁ソウルの鍾路警察に検束」

1924.12   論文「俺の宣言」執筆

1924.12   論文「働かずしてどしどし喰ひ倒す論」執筆

1925.3   論文「陰謀論」を執筆

1925.3.9  朴烈第十三回、十四回予審訊問

1925.5.1  朴烈第十五回予審訊問

1925.5.2  朴烈第十六回予審訊問

1925.5.3  朴烈第十七回予審訊問

1925.5.9  朴烈第十八回予審訊問

1925.5.29  朴烈第十九回予審訊問

1925.6.6  朴烈第二十一回予審訊問

1925.7.7  予審終結決定

1925.7.17  検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法73条と爆取罰則で起訴

1925.7.18  判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類・物品の授受禁止にする

1925.7.18  朴烈第一回予審訊問

1925.8.2  『朝鮮日報』夕刊、記事「不逞社事件予審を終わる」

1925.8.22  朴廷植、証人訊問、大邱地方法院尚州支庁

1925.9.3  朴烈第二回予審訊問

1925.9.5  朴烈第三回予審訊問

1925.9.20  朴烈テキスト<刑務所消息 不逞の烙印>『自我人』第二号掲載

1925.9.22  朴烈第四回予審訊問

1925.10.12 検事総長小山、大審院第二特別刑事部裁判長判事豊島に大審院公判に付すべきという意見書提出

1925.10.28 大審院、公判開始を決定

1925.11.11 接見禁止を解く

1925.11.12 朴烈、金子文子、山崎今朝弥を私選弁護人として選任

1925.11.14 朴烈、金子文子、布施辰治、上村進を私選弁護人として選任

1925.11.17 公判準備調書作成のため朴烈に訊問

1925.11.20 朴烈、金子文子、中村高一を私選弁護人として選任

1925.11.21 『東亜日報』記事「大審院、重大犯人の結婚式」

1925.11.25 布施弁護士、結婚届け三通を差入署名捺印を求める

1925.11.25 朴烈、金子文子の記事が解禁

1925.11.25 『東京日日新聞』夕刊<震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件>

<来月八九両日特別裁判開廷(本日解禁)罪の裏に女!躍動する朴烈が内縁の妻金子ふみ>

<予審免訴十五名><変転の運命から逆徒の友へ><惨苦の中に真っ赤な恋>

<検束で名物の朴夫妻><同志の新山初題は獄死><新山初代 肺患に冒されヤケの生活>

<審問は傍聴禁止 宣告のみ公開><朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿>写真

<大逆事件の首魁朴烈とその筆蹟>

1925.11.25 『東京朝日』夕刊<震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画>

<近く刑務所で正式の結婚><自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈>

1925.11末か12初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会

1925.12.3  朴烈、金子文子、晋直鉉を私選弁護人として選任

1925.12.6 『東亜日報』記事<正式結婚、手続き>

1925.12.7 『東亜日報』記事<結婚に関して>

1925.12.11 『朝鮮日報』記事<獄中結婚は風説>

1925.12.14 『東亜日報』記事<書面上の結婚だけだろう>

1925.12.16 <鑑定人の報告>市ヶ谷刑務所内診察室に於て被告と初めて対顔

………「私はパックヤールです。併し私は鑑定の通知書を送り返し、

同時に鑑定を拒否する旨を既に大審院に申し送ってあるのに、

それに対しまだ何等の返事を受取りません故に私は大審院より何等かの返事を受取るまでは鑑定を受けることは断然謝絶します」

1925.12.22 論文「所謂裁判に対する俺の態度」執筆

1926.1   「朴烈君のことなど 冬日記」中西伊之助『文芸戦線』掲載

1926.1.18  朴烈、裁判長に対し法廷での四条件を提出

1926.1.19  『朝鮮日報』記事<条件を提出したこと>

1926.1.20  『東亜日報』記事<条件を提出したこと>

1926.2.13  朴烈、朝鮮大邱の弁護士、金完燮に公判出席を要請 

1926.2.25  朴烈、朝鮮大邱の金完燮を私選弁護人とする届け

1926.2.26  第一回公判、大審院、人定質問

1926.2   再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援

1926.2.26  文子手記「二十六日夜半」執筆

1926.2.27  第二回公判、金子文子手記朗読、検事論告死刑求刑

1926.2.28  第三回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

1926.3.1  第四回公判、弁論文子の最終陳述、朴烈はしなかった

1925.3.4  『東亜日報』社説「朴烈の思想行為と環境 牧野裁判長の観察」

1926.3.17 『朝鮮日報』社説「朴烈事件に鑑みて」安在鴻、執筆

1926.3.20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号  

在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。

後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか?

「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 

二月十六日午前九時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束十数名、

警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)

「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。

1926.3.23  結婚届けを出す

1926.3.25  死刑判決

1926.3.29 『大阪朝日新聞』

<恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子>

……判決後四日間、外界の何事も知らず市ヶ谷刑務所の独房で妻と夫も名ばかりで

会うこともならずただ黙々として静かな日を過ごしている、このごろの彼等への差入は、

朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は

朝は牛乳一合にパン一片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反し

て、文子は朝は鶏卵二つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は

晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文

子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をし

てきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっている

と、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨

県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か五分間変り果てた娘

の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、

一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第一日に着た

朝鮮礼装一揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が

完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身

の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着で

よいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の

最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝六時に起

き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、

……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語って

いました、……」 1926.3.30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」

1926.4.5  「恩赦」で無期懲役に減刑

1926.4.6  朴烈、千葉刑務所に移監

1926.4.6  朴烈、絶食を始める<「金子文子の自殺と恩赦前后の処遇」

布施文書には6日恩赦伝達後からと記されている>

1926.4.14  千葉刑務所長、絶食中止を説得

1926.4.15 『朝日新聞』記事<千葉刑に送られると朴烈は絶食を始める>

1926.5   「思出の朴烈君の顔」里村欣二『文芸戦線』掲載

1926.6   『朝鮮時論』創刊号、在朝鮮日本語雑誌「朴烈事件に鑑みて」の翻訳掲載

1926.7.23 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、

栃木駅から徒歩10分余り2003年7月23日 現地確認、刑務所跡を示す碑は無し、

舎房棟跡は文化会館正面入口前広場

1923.7.23以降 布施弁護士は朴列に面会、文子の死を伝えた瞬間に面会を打ち切り

1926.7.29  朴烈、金子文子の取調べ中の写真をめぐり怪文書が配布される

1926.8   不逞社のメンバーであった張祥重、鄭泰成が黒友会組織<『朴烈』より>

1926.8.11  立松懐清予審判事、快写真問題で引責辞職

1926.8.16 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く

1926.8.29 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る

1926.8.30 『京城日報』<文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と 

朴廷植釜山で語る>「釜山特電」獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取る

ため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子

朴烱來(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山

に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそ

ばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る、弟には身体の具合が悪

いというので面会ができなかったがいづれまた健康でも快復すれば面会に行きたいつ

もりです、文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが、警視庁から受取ってか

ら別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についている

でしょう、文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日

の取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう。写真のことについては

弟から送ってやるとのことで手紙は来ていましたが私はまだ見たこともありません、子供

は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通譯のために連れて行ったまでで

す。朴廷植は直に北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと

1926.9.14  『東京日日』記事「石黒鋭一郎手記、快写真の件」

1926.9.20  司法省、快写真の経緯を発表、真相を認める

1926    『政争化したる朴烈問題 』江渡由郎、青年政治協会 (青年パンフレット 第3輯)

1926    『朴烈問題の批判』鶉山学堂

1926    『若槻内閣と不景気・朴烈事件と憲政会内閣』豊島新聞社

1926.12.24 今村東京地裁所長無罪を宣告されるも、検事控訴される

1927.2   秋山市ヶ谷刑務所所長、大審院懲戒裁判所で無罪確定 秋山所長、奥村看守長懲戒処分を受ける

1928   「強者の宣言」朴烈、『叛逆者の牢獄手記』行動社同人編に掲載

1934.12   「入獄中のアナキスト朴烈の動静」『特高月報』内務 省警保局保安課、

1935   「大逆事件犯人朴烈の思想転向」『社会運動の状況』内務省警保局

1935.4  「入獄中のアナキスト朴準植の思想転向」『特高月報』内務省警保局保安課、

1935.8.9  『東京日日』記事「朴烈転向、新聞雑誌の閲読禁止」

1936.8   小菅刑務所に移される

1938.9   「朴烈の所感」朝鮮総督府高等法院検事局思想部『思想彙報』第16号

1943.8    秋田刑務所に移される、大館支所か?
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by futei7 | 2011-11-05 13:46
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