山歩き・不逞 其の七


山歩きと韓国
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真友連盟事件・関連テキスト

真友連盟事件・関連テキスト

★『黒色青年』一〇号、一九二七年七月五日発行掲載。 

同志は「直接的原因なる朝鮮真友連盟の爆破事件なるものの真相も、一モルヒネ患者の病的缺陥を奇禍とし、官憲がモルヒネ注射を交換条件として捏造的自白を強いたるものと伝えられている」と結論。

★金子文子、一九二六年七月二三日栃木刑務所にて死す。享年二三

大逆罪で裁かれた二人目の女性。

一九二六年七月三一日布施辰治ら遺体発掘、正午栃木火葬場で荼毘に付す。夜九時に遺骨を東京の布施宅に運び、通夜。制、私服五,六〇名の警官が詰めかける。朝鮮人、日本人アナキスト八〇名余りが集まる。池袋「自我人社」に集まった同志の中から中西伊之助、栗原一男、古川時雄らが

八月一日午前五時頃、遺骨を警察の監視の中、持ち出す

警察は自我人社を包囲、中西らを検束。捜査の結果、遺骨は下落合の旧自然児連盟の椋本運雄方にあることが判明、押収、保管

警視庁は朴の兄が着いたら、朝鮮に送ることを許可することにした。

一九二六年八月一四日朴烈の兄朴庭植、遺骨を受け取りに朝鮮から東京に来る

★『黒色青年』第八号四頁

「朝鮮官憲の暴検挙」

 昨年七月中旬頃から朝鮮に於ける同志、真友連盟の徐黒波、鄭黒濤、馬鳴、禹雲海、方漢相、河鐘珍、徐東星、金東植、申宰模、外数名の諸君が何等の理由も分からずに続々と官憲の手に検挙された。

 越えて八月上旬、折から金子文子君屍体引取中を不法にも警視庁に拘禁していた。自我人社、栗原一男君、黒化社の椋本運雄君、黒友社の金墨君を、大邱署からの依頼と承して朝鮮に押送して了った。

 内地の警察もさることながら、朝鮮官憲の暴虐振りは昔にきこえたものである。

検挙した同志諸君は幾度かの拘留むしかえしをやられ、やっと十月初旬、大邱地方院予審に廻された。

 其間、全ゆる残忍極まる拷問を以て官憲輩が同志諸君に当たった報を、我々は受け取っている。また、刑務所に於ても接見を禁じ、書籍の差入も許さず、そして予審を極度に永引かせる方針を取ったらしい。其故に本年二月中旬頃同志諸君は一斉にハンガーストライキを宣し、一週間余りもそれを続けた。

 これが効を奏して、書籍の差入が許されるようになり且つ、三月八日に、愈々予審終結、不日公判に付すると発表した。

 而史して、予審の結果、栗原、椋本、金墨の三君は免訴になったが、係検事は之を不当として覆審法院に抗告した。

 此の事件は治安維持法違反として、告発されているのであるが、側聞するところに依れば、本件はモヒ中毒の一浮浪青年の誣告に依って成り立った架空事件としか思われない。

★『黒色青年』第一号五頁 一九二六年四月五日

「消息」

朴、金子両君の判決

三月二十五日両君の判決は共に、死刑を言い渡された。

朴君は「裁判は愚劣な劇だ」と叫び、金子君は、「萬歳」を叫んだ。

 朴烈君金子ふみ子君は震災当時九月三日早朝淀橋警察署に保護の名目によって拘留されて以来既に四年、未だに市ヶ谷の獄以外一歩をも地上を踏むことなく、ただ〇〇と〇〇の命のままに、今目前に迫り来っているギロチンを想い静かに、然し底知れぬ沈着さを以て、その日を待っている。生に対する些かの執着をも持たない。いま直ちに君の前に死の手が延びて行くなら、君は、黙ってその手を嘲笑うであろう。そして従容何一言〇〇の命に従うことなく、自らの咽喉をしめるであろう。

 君は常に言っている。

『僕は確かに、僕の仕事を急いだ。その計画の期の。熟するに先だって、自らその期を掠えるために焦りすぎた。それから、僕は所謂同志に対する選択を誤った。誤ったと知ると同時に断然手を切らねばならぬことを知りながらも従前からの関係と、それ程迄に同志の真意を疑わなかった。………』

 今は僕に事件の内容に立ち入って公開するの自由を持たないが、こう言う朴烈君の言葉の中には、如何に自らを血を以て活ききろうとするため腐心したか。そして常に充実したハチ切れそうな熱と努力とを以て活きるだけを活きて来たか。充分に諒察することが出来る。更に君は言う。

『この身体は〇〇のギロチンの露と消え失せるとも、俺の蒔いた種は、あとに残り、かたい地殻を破って芽を出し花を持ち、そして終わりには実を結ばないではやまないであろう。』と。

 今、目前に迫る死を凝視しつつも堅い信念と来たるべき必然とを想って、君は静かに微笑している。

 金子ふみ子君は朴君と同棲未だに二カ年に満たないが一女性として現社会に叛逆して起ってから以来数年、転変極みない生を亨て、苦慘に続く暴圧の下に呻きつつも弱められた女性として起ち、更に一個の人間として、我等の戦線に起って来た。

 今その苦慘二十五年の生涯は如何に〇〇の××××××〇〇〇〇か、知る由もない。

然し去日中大審院法廷に立って、顔色変えることのなかった彼女は、今八百枚にあまる自叙伝を執筆し終わっている諸君の前に何時かは現れることがあるだろう。

★『自由連合新聞』三七号一九二九年七月一日

 真友連盟事件の同志も出獄

去る大正十五年八月栃木刑務所に於て縊死した金子文子君死体引取当時の警察当局出し抜き事件で検束されたまま、朝鮮大邱真友連盟の治安維持法違反事件の被告として大邱刑務所に収容されていた黒色青年連盟椋本運雄、栗原一男の両君は、当時強烈に行なわれた「無罪証明」「即時釈放要求」の運動の甲斐も無く、爾来三星霜の長期欠 されていたが、此の程刑期満ち去る六月十九日無事に出獄、直に帰京し、現在市外代々木富ヶ谷のA思想協に於て静養中である。両君とも極めて元気だ。猶お同事件関係の同志五名は今尚お大邱刑務所に被監禁中である。

★「叛逆者伝一九」金墨君(正根)朝鮮  宋暎運  『自由連合新聞』掲載

 …それから直ぐ一九二六年七月に日本に於て、アジアの弱力民族の大会が開かれんとした時に(ここの弱力民族会議は反動分子共のもので真の弱力民族を代表するのではない)彼は憤然その大会を粉砕すべく単身同様で長崎へ出発の準備を急いだが、遺憾ながら出発の前夜金子文子さんの死を伝える電報が届いた。同志等は驚いた。彼女がまさか、と自殺を信ずるものは一人もいなかった。彼は同志四、五人と布施弁護士と共に栃木刑務所へ赴いた。そして遺骨が布施氏宅へ着くや間もなく、遺骨紛失事件を起こし(遺骨は紛失したのではなく追悼会を催さんと同志の手によって持ち出されて、本を包んで遺骨のように見せかけ終に番犬共をがっかりさせた事件)彼は検束されたが、そのまま何の理由もなくして栗原、椋本の両君と共に朝鮮へ送られて了った。

 既に諸君が御承知の、これが、彼の最後を語る大邱の真友連盟事件である。お互いが消息通信や激励の手紙などなしたとの微弱な口実の下に、七人の同志は無闇に鉄窓の下で殺されて行かねばならなかった。斯様な横暴は植民地に於て更によく見られる現象ではあるまいか、吾々はそれを資本主義並びに強健社会の隠すことの出来ない裸体だと認める。事件は予審免訴にされたにも拘らず、検事は不満控訴をなし遂に七名の同志はそれぞれ懲役の判決があり、彼は五カ年の懲役を言渡された。大邱監獄に於て服役中彼は肺患に罹り一九二八年四月最早見込みなしと認めてか出獄を許され、父親に抱かれて京城の自宅へ帰ったのである。この時それを目撃した同志の話に依れば、彼は見苦しい程やせていてまるで骸骨のようで見るに忍びぬ哀れな姿だったと。家の周りはスパイの奴が二、三人目を張って厳重な警戒をしていて、同志友人等の訪問も自由にならなかったがそれから幾日ならずして彼は死を予知してかその同志を呼び「同志諸君に済まないよろしく」「達者で暮らせよ」「僕のオヤジを安堵してくれ」と三つの言葉を残して、多量の喀血をなし遂に彼は三九の青春を空しく終わった。と語っている。「ヂリヂリとやられるよりは、あっさり一思いに殺された方が…」とは彼が在りし日に残して行った言葉である。彼はその何れに依ってなされたろうか。犬一匹をも大事にする奴等が、何故人間を斯様に惨酷にせねばならぬか。この事実を前に何がくよくよ考えられるだろう。 

 彼は死んだ。然し彼の熱と真面目さは何ものかによって尚ほ生き彼の蒔いて行った種は永遠に朽ちることなく生長することを確信するものである。

★「叛逆者伝」洪鎭祐(朝鮮)栗原一男 『自由連合新聞』掲載

「……然し洪君は言語の不通が甚だしく運動の進展性を阻止することを痛感して、最初に鮮文アナルキ機関紙『民衆運動』を創刊した。けれどもそれは幾ばくもなくして廃刊され、直ちに彼は『自壇』の創刊に着手した。当時彼と親友であった朴烈君は『黒濤』を創刊し、つづいて不逞鮮人と解題し、現社会と改題し、最期の震災によって捕らえられるその日まで、雑誌『現社会』を世に送り、尚且つ黒友会の運動、更に次から次へと継起する労働争議、鮮人迫害事件等々々『彼の生存が如何にあづかって力あったかは、今日その枚挙に遑ないであろう。………

彼の東京に於ける最初の受難は朴烈君事件であった、市ヶ谷に一年病弱な彼はそれでも何時も元気に夕方になると高窓から首を出し合って漫談に時を過ごしていたし何時も快活で明るく、大半を読書と英文典に費やしていた、けれ共、そうしている間に既に病魔は彼を犯しつつ来たるべき第二次の入獄に彼をあほるべき運命にまで突進んでいた。十三年の真夏市ヶ谷を出獄するや彼は帰鮮した。そして在郷一年情熱家で熱烈な××精神に燃え立っている彼は、朝鮮のあの悲惨な農民の生活を目撃した時忍び難い公憤と、理想社会への憧れとは、病弱の彼の身を憩わせては置かなかった。在鮮同志を呼合した『黒旗連盟』は飢餓と絶望と倦怠のドン底にある京城の一角に猛然と運動を開始した。否!開始せんとした。けれど既に不穏?の策動を探知した当局は洪君、そうだ!あの情熱的で沈着な恰度、マハイロフの様な洪君が、貧のどん底にあって、日用の鍋二つと一個の釜を入質して郷里から京城に向け出発するや否や、彼を引捕らえて了った。在獄数ヶ月、黒旗連盟は同志十名により不穏な計画と運動に着手したとの理由で治安維持法により懲役一年を宣告した。服役中病勢昂じたために仮出獄すらした程であったが、残余刑数ヶ月を大田に送ることによって、彼は全く病魔の虜となって了った。

彼は事に臨んで常に沈着であった。そして聡明のきこえ高かった彼は、明確に認識するまではその相手から根掘り葉掘りして聴取した。その代わり自身の意見を陳開するにあたって、相手の理解するまで悟了する迄は、誠に彼は飽くことを知らない不撓不屈の性格抱持者だった。その彼のアルチュアを蒙った者は単に鮮人の同志諸君に限ってはいない。当時、黒友会、現社会、自壇等に関係を持った日人の中に、彼独特の論調と快活さをもって「権力及び力の問題」「相互扶助と生存競争の双連」等について彼一流の論議を聞かされなかった者があるであろうか。又時に臨んで剛毅な彼は、朝鮮キリスト青年会館に開かれた朝鮮問題演説会に不当な解散を詰問すべく司会者として壇上を領し頑として臨検の犬共を蹴飛ばした事実等は一面の彼の風貌を忍ばしめるに充分である。

 洪君  悩みと苦闘と、そして貧にまとわれる苦痛の生活、そのために生み出されたかの如き生活に終始し、尚お且つ、あの革命的熱情と理知的才能に恵まれていた彼その彼は遂に二度目の入獄によって生命を奪われなければならなかった。

 一九二八年五月十八日午後五時廿五分、京城大学病院の一室に、親友李箕泳君と彼の妹達少数の友人に護られつつ××戦線の曙のおもむろに白み行く時、然り三十二歳の血気盛りを、空しくも亦悲壮に消えて行った彼、彼のあの柔和でだが力と意気に充ち溢れたその声を、我々は再び耳にすることは出来ない。

 彼は逝いた。彼は再び還らない。

 けれど私は愚かにも彼の生前を追憶して彼の熱情と意気とを、もう一度偲び尚おこう、彼の還らざる魂を我等の現実にまで呼び覚ましたかったのである。(一〇.二二)」

★<布施辰治弁護士の報告『労働運動』、同志の報告記事『黒色青年』紙より>

 此の事件は治安維持法違反として、告発されているのであるが、側聞するところに依れば、本件はモヒ中毒の一浮浪青年の誣告に依って成り立った架空事件としか思われない。

 布施辰治は「被告人栗原一男、金正根、及び椋本運雄の真友連盟員に対し無政府主義に基づく新社会の実現の為暴力による直接行動を教唆煽動し、之をして暗殺破壊の協議をなさしめたり」と云う起訴をしたのが事件の内容である。

 布施辰治「被告人椋本運雄が大正一五年二月中前者と同様の目的を有する黒化社なる結社及び前示黒色青年連盟を組織したることの意見と、被告人栗原一男が大正一五年一月三一日夜に於ける東京市京橋区銀座通に於ける黒色青年連盟員の暴行障害等を為したる事件に付真友連盟に語りたること、及び、被告人金正根が、<真友連盟の設立は大正一四年九月二九日>真友連盟員に対し無政府主義実現の為には直接行動によらざる可化らずと告げ、又其趣旨の書面を申宰模に送り、被告人椋本運雄も同趣旨の書面を方漢相に送りたりとの事実と、前述被告人栗原一男、金正根の談話及び金正根が申宰模に送りたる書面……、被告人椋本運雄の方漢相に送付したる書面」とを綴り合わせて「被告人栗原一男、金正根、及び椋本運雄の真友連盟員に対し無政府主義に基づく新社会の実現の為暴力による直接行動を教唆煽動し、之をして暗殺破壊の協議をなさしめたり」と云う起訴をしたのが事件の内容である。

「直接的原因なる朝鮮真友連盟の爆破事件なるものの真相も、一モルヒネ患者の病的缺陥を奇禍とし、官憲がモルヒネ注射を交換条件として捏造的自白を強いたるものと伝えられている」『黒色青年』一〇号 一九二七年七月五日

『黒色青年』一九二九年七月一日、大邱における大衆的なアナキズム運動の動きを警戒した警察が治安維持法を駆使し椋本、栗原等を報復的にフレームアップ起訴したのが「真友連盟事件」のあらましである。

「長期の刑を終わり同志出獄す幸徳、真友両事件の人々」『自由連合新聞』一九二九.七.一

『自由連合新聞』四六号一九三〇年四月一日

 「真友連盟の同志等出獄」

何の理由も泣く検挙され、不法にも治維法を適用されて以来三カ年を獄中に送った真友連盟員諸君はその後続々と出獄中であるが、去る

★自殺した(?)金子文さんのこと『黒色青年』一一号 一九二七年八月五日発行

 大正十五年七月二十三日栃木刑務所の発表に拠れば、この日の未明監獄内は不気味な静寂に眠りつつある時、文さんは自殺して、永劫にぼく等から決別したと謂うのである。

 何が故の自殺であるか? その原因について、将又その真相に至ってはぼく等はここに発表し得ないのを遺憾とする。

 最後まで官憲の暴圧に抗争し、而しも自殺の数日前まで元気でいた文さんが、ふいと気まぐれな運命の戯れに取憑かれたと云ふなら、それは余りにも小説的な仮構である。

 とまれ、文さんは死んだのだ。貧乏と迫害に虐められつつも、雄々しく勇敢に支配者階級と戦ひ、自由連合の社会建設のために努力したぼく等の得難き同志文さんは居ないのだ。むざむざと敵の手に葬むられたぼく等の胸中は………屍を踏んでもと決心さすのである。女性としてではなく、一個の人間として叫んだ文さんは斯ふ云っている。

 「相手を主人と見て仕へる奴隷相手を奴隷として憐れむ主人、その二つながらを共に私は排斥する個人の価値と権利とに於て、平等観の上に立つ結束それのみを人間相互の間に於ける正しい関係として私は肯定する。」

 その文さんも斃れて今は居ない。



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by futei7 | 2001-07-22 09:08
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