山歩き・不逞 其の七


山歩きと韓国
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朝鮮真友連盟事件

朝鮮真友連盟事件 

 朝鮮黒色運動の視点も含め一九二〇年代、日本列島におけるアナキズム運動史を捉え直す

 関東大震災を機に国家権力は戒厳令下、究極の治安弾圧を行使し、軍隊、警察、民間の暴力によって朝鮮人、中国人、社会主義者を虐殺した。その経験をもとにに一九二五年、従来の治安警察法を超える治安法としての治安維持法を制定し、合法的、恒久的、法律の名のもとに社会体制を変革しようとする人々への弾圧を開始した。

 ことに国家権力が朝鮮の支配、植民地化を強めるために朝鮮と日本の民衆の連帯した活動は国家権力にとっては最も恐れるものであり、そのため小さなグループであっても壊滅させることが目的となった。

 国家権力にとって金子文子、朴烈たちを中心とした不逞社グループの存在は最も忌避されるものであり、そのためメンバーはフレームアップ弾圧、獄死攻撃にさらされた。従来の「大逆罪」のみの側面、「朴烈事件」という名称に収斂される弾圧に関心が向けられるが一九二三年から三〇年にかけて当事者たちへの弾圧は続き、朴烈は日本帝国主義が敗北した後もすぐには解放されなかった。

 官憲の資料に日帝本国内の朝鮮人アナキストの「動向」が記述されている。「不逞社検挙後の残党張祥重、李弘根、元心昌等一味の者は徐々に挽回運動に努め……大正十五年十月陸洪均等は黒友会を黒色青年連盟と改称し(一)自由連合主義を高唱す(二)被征服者の解放は其自身の力でなにければならぬ等のスローガンを発表し内地人無政府主義団体黒色青年連盟に加入せるが彼等は飽迄朴烈の遺志を継承する為とて[不逞社]と改称し同年十二月機関紙『黒友』を発行せるも発禁処分となりたるを以て更に黒風会と改称し李弘根、元勳、朴茫等は総同盟系なりし東興労働同盟を本会の細胞団体たらしむべく画し更に昭和二年二月本会の別働隊たる朝鮮自由労働者組合を呉宇栄等によりて組織せしめて運動線の拡大に務むる処あり」

 組織関係に関して官憲の分析が正確なものか疑問は残る。たとえば「黒友会を黒色青年連盟と改称」というのは組織を誤認した記述ではないか。黒色青年連盟というのは個別グループの自由連合の結果、結成された連盟であるので「改称」というのはおかしい記述である。すぐ「黒色青年連盟に加入」という記述もあり矛盾するのである。しかし黒友会、不逞社、黒風会という一九二三年の弾圧時のグループ名が継承され使われていたのだろう。金子文子、朴烈の裁判傍聴に黒友会という名が新聞報道に出されている。

 朝鮮に戻ったメンバーを挙げている。「然るに先是不逞社事件の関係者徐東星は予審免訴となりて大邱に帰来後大正十四年九月同志を糾合して朴烈の遺志を継承実現すべく真友連盟を組織し別項重要事件記載の如き不逞行動を画し未然に検挙せられたり」。ここに不逞社と真友連盟を結びつけた真友連盟を当初から機会があれば潰すというこんたんが認められる。

 三つの大きな「事件」があった。

金子文子・朴烈の「大逆事件」

黒色青年連盟の「黒旗事件」(銀座事件)

朝鮮テグの読書会グループ「真友連盟事件」

金子文子・朴烈「大逆事件」

 関東大震災後の九月三日、代々木の不逞社から保護検束という名目で文子は朴烈と共に警察に連行される。続けて他の同志たちも検挙される。治安警察法違反から、使用目的が具体化していなかった爆弾入手の試みが拡大解釈され文子は刑法七三条で朴烈と共に起訴される。「天皇は病人ですから…それで坊ちゃんを狙ったのです」と文子は予審で当時の皇太子を攻撃目標と考えていたと供述しているが具体性は無かった。一九二六年三月二五日、朴烈と共に大審院により死刑判決。四月五日恩赦による減刑で無期懲役。文子は栃木刑務所にて服役するが、筆記や読書制限という弾圧を受ける。一九二六年七月二三日、獄死する。刑務所の発表は縊死。死因に疑問をもった布施弁護士や同志は母親と共に刑務所の墓地に向かい発掘するが、死に至る経緯は不明。同志による文子の遺骨保管に関連し警視庁は母親と同志たちを半日検束する。検束された栗原一夫と椋本運雄はそのまま朝鮮に送還され真友連盟事件の治安維持法でフレームアップ弾圧を受ける。

 真友連盟事件

 朴烈、金子文子の大逆事件においては治安警察法ですら他の同志を公判に持ち込めず、また一九二六年一月の黒色青年連盟による黒旗事件<銀座事件>において警備の失態と治安維持法を行使できないという屈辱を喫した官憲が治安維持力の回復を誇示するため、アナキストたちによる「大逆犯」金子文子の追悼行動を契機として黒色青年連盟に参加していた椋本、栗原、金正根を真友連盟の周辺にいた仲間の偽証によりこじつけ治安維持法違反としたものである。日帝本国と朝鮮のアナキストの連帯、共同した闘争をことごとく潰すという官憲の大弾圧である。一旦は予審で免訴の決定が出ているように証拠は薄弱でフレームアップを物語っている。検察側の主張はアナキズム思想、運動そのものが治安維持法違反になるとこじつけている。真友連盟自体はアナキズムの読書会として出発したグループである。

 黒旗事件<銀座事件>

 黒色青年連盟の演説会を潰す意図のもと官憲は弁士中止を連発、怒りの参加者は芝から至近の銀座に向け、示威行動を展開し街頭に面した店舗のショーウィンドゥを破損させた。真友連盟事件では黒色青年連盟の組織自体が治安維持法されている。

 黒旗事件<銀座事件>『黒色青年』掲載記事より

「一九二六年一月、黒色青年連盟結成、銀座デモンストレーションわが黒色青年連盟は一月三一日午後六時半より芝協調会館で第一回の演説会を開催した。東京地方に散在する無政府主義団体の最初の会合であった。会する者七百有余。二流の黒旗の下には六つのスローガンが挙げられていた。四〇数名の弁士はこのスローガンによって熱弁を振ったその殆ど大部分はお極りの弁士 「中止」。自然児の深沼君は、紙製のバクダンを壇上にたたきつけて検束、同横山君は私服警官と論争して検束斯くして横暴なる官権の圧迫の下に、遂に午後九時散会するに 余儀なかった。然しながら一つの行動は数万言の議論にも優る。会衆は街頭へ出た。黒色青年連盟と染めなされた黒旗は高く頭上に翻って銀座へ黒旗は疾風の如くに銀座街頭に駆走する。礫は飛ぶ。旗先は硝子窓にぶち当る。この行動を阻止しようとした尾張町交番の岸巡査は全治二週間を要する殴打傷を頭部に受け遂に窓硝子の破壊されたもの二〇有余軒、築地署は直ちに非常線を張って三二名を検束し愛宕署に六名、翌早朝各団体は寝込みを襲われて家宅捜索を受け、所轄署に取調べを受けた。かくして我等はかかる微細の事件なるに不拘、遂に同志二二名を市ヶ谷刑務所に送らねばならなかった。越えて翌月一三日、山崎真道、松浦良一、匹田治作、熊谷順二、北浦馨、荒木秀夫、秋山龍四郎の七君を残して検事令状(拘留の必要を認めず)との理由によって出獄した。 折柄開会中の帝国議会に一大波乱を起こしたことはあまりに明白だ。ここに省略する。」

 内閣の緊急会議と議会での質疑が新聞報道されている。抜粋する。

『東京朝日新聞』夕刊1926.2.3

 臨時閣議を開き政府の対策成る昨夜内務省の協議に引続き答弁方針を決定す

「無政府主義取締近く声明せん、本日閣議で決定、黙視できぬ銀座街事件

銀座の暴行事件は果して何人の責任ぞ、無警察に等しき帝都の取締を、政本相提携して内相に迫る、衆議院本会議、銀座街頭の暴行と革命歌高唱

「一体帝国の警察は何をしているのか常にかくの如き事件が事前に防がれず事後になって漸く騒ぐが如きは何事であるか」

「この危険なる思想の表現として帝都の中央部に暴行事件が起ったことは一つの革命とも見られるではないか」

「この事実に対して警視庁の執りたる取締は不完全ではなかったか」

若槻首相

 「協調会館の演説会では著しき事故もなく解散をしたがその一部の者のうち約三十名は銀座街に出たので電話で警戒を通報した山崎某が博品館のガラスを破壊したのが動機となり各所のガラスを破壊するに至ったがその時は遂に検束することを得なかった」

 一九二六年三月「不逞社」の朴烈と金子文子は大逆罪で死刑判決<「恩赦」で無期懲役に減刑>を日帝権力、大審院から下された。他の「同人」は金重漢が爆取罰則で三ヵ年の懲役。一たんは起訴された治安警察法が「免訴」になり検束から一年前後の拘置で「釈放」になった。しかし新山初代は獄中にて危篤、釈放直後病院で死亡している。洪鎭祐は朝鮮に戻って活動を続け「黒旗連盟」を結成したが治安維持法で起訴され獄中で病状悪化し、京城大学病院で死亡。栗原一男は金子文子の遺骨を警察の監視化で確保した報復により、デッチ上げ治安維持法で三ヵ年を朝鮮の監獄に囚われる。「不逞社」のメンバーではなかったが金子文子の遺骨を同志として確保した金正根<金墨>は朝鮮の監獄で病状悪化、保釈直後に死亡している。同じく椋本運雄も三ヵ年の朝鮮での監獄生活。金子文子の遺骨に関わっただけで、日帝官権より暴圧を受けたのは死んでも大逆罪はつきまとうのである。一九二三年には治警法ですらデッチ上げを果たせなかったのが一九二五年の治安維持法制定後には、デッチ上げられ監獄に送られる獄中病死させられるのである。

 大逆罪の事後暴圧には栗原、椋本と連絡をとっていた朝鮮の真友連盟のメンバーも巻き込まれたのである。

 真友連盟「治安維持法」フレーム・アップ事件

舞台は栃木、東京、朝鮮、大邱、直接的動きは二つに絞られる。

 一九二六年一月、黒色青年連盟結成、銀座デモンストレーションでの破壊行為。一九二六年七月、金子文子死す。「遺骨を同志の手に」。内務省、警察権力は銀座事件、金子文子遺骨「奪還」事件、二つの行動を結びつけた。

 一九二三年九月三日、関東大震災後の戒厳令下、文子は朴烈と共に陸軍軍人により保護検束され、公然と活動していた不逞社が治安警察法違反で秘密結社とされ、起訴≪他の同志たちも順次、治安警察法で検挙、起訴された。≫

まさに有事の際の「保護」から「大逆罪」まで一直線につなげたのである。 二人は不逞社の同志と共に、天皇、皇太子、日本帝国主義国家を打倒目標とし、その手段として爆弾を入手しようとし、ダメージを与えるための行動を企図したことはある。しかし、それは漠然としたものであり、具体的行動につなげた部分は権力がフレーム・アップしたものである。

 椋本運雄は金子文子の遺骨を自室で預かり、それ故官憲からの報復を受け、真友連盟に関わる治安維持法違反によりフレームアップ弾圧され懲役三年の実刑となる。江西一三は「関東大震災後の日比谷公園のバラックに自然児連盟員一〇人余り占拠」と回想、椋本の名も挙げている。(『江西一三自伝』一九七六年五月発行、江西一三自伝刊行会刊)。椋本本人は獄中からの短い手紙以外に文章を残していない。『黒色青年』紙の消息記事で初めて名が出る。椋本運雄が参加していた「自然児連盟は都合上解体、残務整理、府下上落合六二五 前田淳一君方」『黒色青年』一九二六年四月五日発行。次いで「旧自然児連盟の前田淳一、椋本運雄、深沼弘胤の三君、それに文芸批評社の麻生義君が一緒になって黒化社をつくった。機関紙『黒化』を出す。同社は市外落合町上落合六二五。来月初旬より続々とパンフを刊行する由」『黒色青年』一九二六年五月五日発行。

 深沼火魯胤(弘胤)の獄中記「避難漫言」によると(『激風』創刊号、一九二六年六月発行掲載)、椋本、山田緑郎、臼井源と四人で一九二五年初夏「公務執行妨害、傷害」の弾圧を受け、椋本は市ヶ谷刑務所、豊多摩刑務所と合わせて三ヶ月も囚われ、一九二五年一〇月に出所とある。

 一九二六年七月二三日、栃木刑務所における金子文子の死と同志たちの追悼に対し警視庁は弾圧をしかける。七月三一日、布施辰治ら金子文子の遺体発掘、正午栃木火葬場で荼毘に付し、夜九時に遺骨を東京の布施宅に運び、通夜を催す。制私服警官五,六〇名の監視の中、朝鮮人、日本人アナキスト八〇名余りが集まる。池袋「自我人社」に集まった同志の中から中西伊之助、栗原一男、古川時雄らが八月一日午前五時頃、遺骨を警察の監視の中、持ち出し、警察は自我人社を包囲、中西らを検束する。捜査の結果、遺骨は下落合の旧自然児連盟の椋本運雄方にあることが判明、押収、保管をする。椋本も文子の母親や栗原一男と共に警視庁に検束される。母親は半日後に検束を解除されるが椋本、栗原等はそのまま拘束。八月一四日、朴烈の兄朴庭植が遺骨を受け取りに東京に来るが池袋警察暑は遺骨を直接渡さず、朝鮮尚州警察経由で朴庭植に渡るよう画策。

 椋本たちは朝鮮大邱の「陰謀事件」にこじつけられ八月一五日大邱に送られてしまう。「重大犯人受取りのため警視庁へ出張した慶北道警察部の成富高等課長吉川判事、谷重高等主任以下五名は犯人主魁栗原一男以下四名を護送して一五日帰任した。犯人は目下大邱署で厳重取調べ中事件の内容は厳秘で取調べ進捗につれ拡大の見込みである」と一般紙で報道される。

 一方、真友連盟は朝鮮大邱におけるアナキストの大衆団体であるが「一九二六年七月中旬頃から朝鮮に於ける同志、真友連盟の徐黒波、鄭黒濤、馬鳴、禹雲海、方漢相、河鐘珍、徐東星、金東植、申宰模、外数名の諸君が何等の理由も分からずに続々と官憲の手に検挙された。お互いの消息通信や激励の手紙を出したなど微弱な口実が治安維持法違反に結びつけられようとしていた。八月上旬、折から金子文子君屍体引取中を不法にも警視庁に拘禁していた自我人社、栗原一男君、黒化社の椋本運雄君、黒友社の金墨(金正根)君を、大邱署からの依頼として朝鮮に押送してしまう。八,九月と検挙された同志諸君は幾度かの拘留のむしかえしをやられ、接見禁止、書籍差入禁止となる」(『黒色青年』『自由連合新聞』紙の記事より)

 一〇月、大邱地方予審に廻されるが、翌一九二七年二月中旬、予審の長期化に対し一斉にハンガーストライキを一週間続ける。これが効を奏して、書籍の差入が許されるようになる(『黒色青年』第八号四頁一九二七年四月五日)。なお『黒色青年』一〇号一九二七年七月五日にも公判報告記事が掲載。

 一九二七年三月八日、予審が終結し栗原、椋本、金墨(金正根)の三人は免訴になるが検事はこれを不当として覆審法院に抗告、その結果免訴は覆り公判に付され、一九二七年五月二六日、六月九日、一四日と三回の公判が開かれる。栗原からの手紙によると「椋本と金正根と僕は、検事の求刑は各一〇年です。真友連盟の主なる方漢相、申宰模は各五年です。他は真友連盟を創立する際協議した者四,五名が各四年、後から真友連盟に加盟した者が各三年の求刑がありました」

 一方、東京では、一九二七年六月二三日、黒色青年連盟が朝鮮総督府東京出張所並びに司法省に殺到し、抗議書を突きつけ同事件の関係者の即時釈放を要求。しかし、六月二五日判決公判で懲役三年、即日下獄となり後に京城西大門刑務所へ移監させられる。

 一九二七年六月二五日<大邱より>として椋本運雄の手紙が掲載。「……横暴、無茶、彼等番犬の処置に反抗して、細食、放歌、毒舌、騒擾したのが一〇年だ、と言う検事の論拠が如何に乱暴極まるものであるか位の事は、多言を要せずして明な事である。…」(『黒色青年』一二号一九二七年九月五日)。七月四日再び黒連は抗議書を突きつける。しかし同志たちは長期投獄され、一九二八年八月六日、大邱監獄の金正根は肺患が重くなり獄外に出されたが死亡。

 ようやく満期の一九二九年六月一九日「椋本、栗原出獄」「現在東京市外代々木富ヶ谷の<A思想協>に於て静養中である。両君とも極めて元気だ。なお同事件関係の同志五名は大邱刑務所に被監禁中」。

 朝鮮の同志たちは、一九三〇年一月二四日、二五日「馬鳴、禹雲海の両君は元気で出獄した。目下大邱の自宅で静養中、馬君は約一週間前、犯人逮捕を妨害したとかで再び<公務執行妨害>とういうイイ加減な罪名で検挙されている由」と出所した。

 布施辰治は「<被告人栗原一男、金正根、及び椋本運雄の真友連盟員に対し無政府主義に基づく新社会の実現の為暴力による直接行動を教唆煽動し、之をして暗殺破壊の協議をなさしめたり>と云う起訴をしたのが事件の内容である」「被告人椋本運雄が大正一五年二月中前者と同様の目的を有する黒化社なる結社及び前示黒色青年連盟を組織したることの意見と、被告人栗原一男が大正一五年一月三一日夜に於ける東京市京橋区銀座通に於ける黒色青年連盟員の暴行障害等を為したる事件に付真友連盟に語りたること、及び被告人金正根が、<真友連盟の設立は大正一四年九月二九日>真友連盟員に対し無政府主義実現の為には直接行動によらざる可化らずと告げ、又其趣旨の書面を申宰模に送り、被告人椋本運雄も同趣旨の書面を方漢相に送りたりとの事実と、前述被告人栗原一男、金正根の談話及び金正根が申宰模に送りたる書面……被告人椋本運雄の方漢相に送付したる書面、という起訴をしたのが事件の内容である」と報告。第五次『労働運動』



 裁判所の一部は国家権力に抗することができず、免訴に対する検事抗告へ抗告裁判所は以下のように断定し、前の免訴を取消し公判に附している。この決定にはグループとグループを単純に結びつけることでしか「証明」できない治安維持法フレームアップの本質が示されている。

「被告人栗原一男は東京市内に於て、同志松永鹿一、小泉哲郎、古川時雄、井上新吉等と共に無政府主義的運動を目的とする結社《自我人社》を、被告人椋本運雄は同じく東京市内に於て深沼弘胤、麻生義、前田淳一等と共に同一目的を有する《黒化社》なる結社を組織し、又被告人金正根は朴烈こと朴準植が組織したる無政府主義的結社なる《黒友会》に加盟し、朴烈下獄の後は其の首領として現に同会の牛耳を執りたるが、同被告人等は相謀り、汎く全国に於ける無政府主義的思想の懐抱者を結合統一して其の目的とする理想社会の実現運動を促進せしめんことを企画し、大正一五年一月中、右被告人等の組織せる自我人社、黒友会、及び黒化社を中心として、黒旋風社、解放戦線社、自由労働運動社、関東労働組合連合会、其他各地の無政府主義傾向に在る団体を糾合して黒色青年連盟なる一大結社を統合し、其の本部を東京市内に置き爾来被告人等は主動の位置に在りて不穏文書の配布、通信集会協議、其他の方法に依り同志間に於ける連絡を密接ならしむると共に其の目的達成の為には騒擾暴行其の他生命身体又ま財産に危害を加ふべき犯罪を暗示せる所謂破壊的直接行動に依るの外なき旨を以て内地並に朝鮮に於ける同志を激励煽動し居りたるものなり」

官憲資料にフレームアップされた真友連盟事件

一 大正十四年九月大邱に於ける主義者等相集り親睦修養を標榜して真友連盟を組織したるが其動機を見るに朴烈事件に連座し予審免訴となれる徐東星が朴烈の遺志を継ぎ志操強固にして犠牲的精神に富む同志八名を糾合し組織したるものなるが同年十一月連盟員方漢相が東京に潜行し約三箇月滞在して内地人無政府主義者と往来したることあり其の後方漢相、申宰模の両名は在京の同志と頻繁に交通せることありたるのみならず両名は嘗て朴烈の入獄に対し義捐金を送付したる形跡あり連盟員は警察の視線を避くる為創立以来嘗て公然集合したることなく秘密裡に会合し同志間の重要なる連絡は文書を持ちいず口頭を以てし極力秘密の漏洩に苦心せる状況あるを以て厳重注意の中の処愈々破壊暗殺に対する具体的方法を謀議せること所轄大邱警察署に於て探知せるを以て大正十五年七月中旬連盟員十名で他の関係にて一応拘留処分に附し取調をなすと共に関係者の家宅捜索を為したる処

 一、金正根より方漢相に郵送せる反逆児連盟の宣言

 二、金正根より申宰模宛の通信文

 三、在上海高白性より方漢相宛の通信文

 四、椋本運雄より方漢相宛の通信文を発見したる外栗原一男は本件と密接の関係あること判明せるを以て金正根、栗原及椋本の三名を東京に於て逮捕連行し取調の結果何れも右の如き犯罪事実明瞭となりたるを以て有罪意見にて八月二十八日検事局に送致せり

二、犯罪事実

 (一) 栗原の来朝鮮と破壊暗殺の教唆関係者の供述を総合するに本年四月栗原一男が朴烈死刑の場合屍体引取りに要する委任状及金子文子の入籍に関する用務と称し朴烈の兄朴廷植に面会すべく大邱に来れる際真友連盟員申宰模、徐学伊、馬明、禹海龍、鄭命俊の五名と会見し東京に於ける黒色青年連盟の活動状況殊に同盟員が本年一月二十一日銀座通りに於て商店を破壊せる直接行動の状況を説明し内地朝鮮を通し現在の強権主義の治下に在りては自由の擁護主義促進の為めに破壊暗殺等は当然吾人の負担せざるべからさる使命なる旨を縷述し暴行の教唆煽動を為すと共に極力黒色青年連盟に加盟方を勧誘し加盟方の同意を得たり

 (二) 破壊団の組織

 十二日夜真友連盟徐東星、…の十名は栗原の留守中、栗原の宿泊せる大邱府新町李今伊(申宰模の妻)方に同十三日申宰模宅に集合協議し無政府主義運動実現の第一歩として東京に於ける黒色青年連盟の暴挙に倣い先ず富豪より資金を調達し二箇年以内に大邱府内に於ける道庁警察署郵便局地方及履審両方院を始め主なる官署及商業中心地たる元町一丁目の店舗を破壊し且つ知事、警察部長其の他官衙の首脳者の暗殺を敢行すべく新に破壊団なるものを組織し宣言綱領を起草し各自之に署名拇印し直接行動の具体的方法は改めて決定すべく申合せ栗原が大邱を出発し京城に赴く際申宰模は同志を代表して停車場に見送り破壊団の組織を内報したる事実あり栗原は前記の如く凶暴行為を煽動教唆したるに止まらず不穏計画の内容にも関与せるにあらずやと思料せらるるも目下の処確証を得ず右の外破壊団員は凶行に使用する目的を以て爆弾を在上海民衆社高白性の手を経て入手の計画ありたり尚宣言書綱領の所在に付ては假令し死すとも語らずと称し陳述を肯せざるを以て入手するを得ず

 (三) 叛逆児連盟との関係

 金正根は叛逆児連盟より黒友会に配布ありたりと云う叛逆児連盟宣言書九枚を本年五月中申宰模宛送付し来りたる事あり……

 (四) 金正根との関係

 金正根は朴烈の遺志を継ぎ独り東京に止まり黒友会の復興に力を注ぎ居りたるものなるが客年十月頃帰朝鮮して真友連盟員と会合し共に将来の運動方法に関し協議したるが同年末帰京するや真友連盟と内地人主義者の間にありて専ら連絡の衝に当り本年一月中申宰模宛過激なる通信文を郵送し来りたるのみならず前項の如き叛逆児連盟宣言書を送付し来りたる事実あるを以て本件と相当深き関係ありと認めらるるも破壊団の関係に至りては未だ判明せず尚別紙第二号の通信文は申宰模より馬明に回覧の為手交しありたるを馬明宅にて発見したるものなり

 (五)椋本運雄との関係

 椋本は……直接行動を促進する手段として同連盟員に?々教唆煽動の通信を為したる事実あり

 (六) 高白性との関係

 ……在上海高白性こと高三賢より方漢相方に宛てたる押収通信文は無政府主義団体の増設方を煽動し且つ目下上海に於て計画中の遠東無政府主義者総連盟成立の上は之に加盟方を慫慂し来りたるものなるが上海方面に於ける有力団体との関係明ならず



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by futei7 | 2001-07-23 09:03
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