山歩き・不逞 其の七


山歩きと韓国
by futei7
外部リンク
最新の記事
以前の記事
その他のジャンル
画像一覧

1922年新潟・中津川事件


『東亜日報』1922年8月1日付

見出し

日本における朝鮮人大虐殺
見よ! この残忍あくどい惨劇を
一日十七時間の苦役を強制しておいて逃亡すると銃殺し川に投棄

毒魔によって惨殺された者百名余

信越電力株式会社は、日本の信濃川という川を利用して八年計画で東洋一の規模の
大発電所を新潟県に建設するため、朝鮮人労働者六百名、日本労働者六百名、合計
千二百名を使って工事を進めている。
ところが最近信濃川の流域に朝鮮人労働者の死体がたびたび流れてくるので、中魚沼郡
十日町警察署で怪しく思い仔細に調査をした結果、天下に驚くべき事実を発見した。
 
記事略
「こうして虐殺された朝鮮人の数はどれほどになるか?
これはまだ確実ではないが、逃走の途中発見され殺害
された者、過度の労働に耐え切れず病にかかり殺害さ
れた者を合わせれば百名をくだらぬもようである。」
後半記事略

 総督府警務局から発売禁止、押収をされる。

佐藤氏論文は
日本国内の新聞社の取材姿勢の後退
『読売』の記事を書いた村田豊明記者
情報源「虐殺現場を目で見たと云う電力会社のある使用人に聞いた」
「国家的見地からみて、朝鮮人に、その人の名を正直に話すことは
できない」報道管制

『東亜日報』8月20日付
見出し
風説の出拠は確実
だが朝鮮人には話せぬ
忌避した読売新聞特派員の態度
「はじめて読売新聞に掲載された虐殺事件は、どこから出たものか
その記事を書くため現場を視察した読売新聞記者村田豊明氏が調査委員
羅景錫氏に語ったところに依ると、虐殺現場を目で見たと云う電力会社
のある使用人に聞いたもので、国家的見地からみて、朝鮮人に、その人
の名を正直に話すことはできないが、内務省当局者には詳細に話して
あるという。
 また関係当局者も、誰であるかわかっているが、その人を調査することに
なれば、会社から免職されるおそれがあるから実行は困難であると調査委員
の調査希望に応じようとしない。かれらの態度は奇怪である。
 (十八日大割野から)


1922年9月6日
新潟県虐待事件と反響
空前の大演説会
朝鮮人と日本人の連合で
鄭海雲、羅景錫、朴烈、鄭泰成、白某(註・白武)、金鐘範、申某、金烔斗、李康夏

1922年9月8日
検束された演士は拘留
錦町警察署に検束された白武氏は十日間の拘置に処せられた。
また当日演士であった中浜哲氏は会場に入ろうとしたが入り口を警備していた警官に
はばまれ、門の外で錦町警察署に検束されたのち、八日警視庁に押送されたと云う。
東京特派員電報

9月9日
革命歌裏に解散
演士白武氏外8名検束
東京で開催された新潟県事件演説会
大盛況中、結局は解散命令
東京から特派員、李協相

7日午後7時から開催
演説会の計画が発表された当時から警察の圧迫がひどく
興行物規則で取締ろうとしたり、あるいは堺利彦、大杉栄らの社会主義者が
参加すれば、開会と同時に解散させるというので、やむをえずすでに弁士に
決定されている堺利彦、大杉栄氏の外おお勢の弁士を除き、委員諸氏が苦心
惨憺のすえ、やっと演説会の開催にこぎつけた。
この日会場には定刻二時間前からひと人が、潮水のように押寄せ六時までには
すでに二千名をこえた。錦町警察署では署長以下警官約六十余名、さらに警視庁
内鮮係が総動員され会場内外をほぼ包囲し、入場者をいちち厳重な身体捜索を行い
刃物はもちろん、靴べらにいたるまで金具類の所持者は完全に入場を禁止するなど
異様な警戒ぶりは見ている人たちを非常に驚かせた。

日本人がほぼ二千名
朝鮮人はほぼ五百余名にもなった。

扉の外には入場できず立っている人がなんと数千名にもおよんだ。
羅景錫、朴烈両氏の実地調査の報告演説がおこなわれ…



1922年9月7日。信濃川虐殺真相調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」が開催される。
この演説会は、官憲の介入で途中で解散させられたが、当時日帝本国で活動していた朝鮮の社会主義者と日本の社会主義者たちが初めて協力して開催した集会である。

朴烈は現地調査を報告、中浜哲は検束される。(信濃川虐殺真相調査会が組織され新潟現地調査に参加 <新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か>)二二年九月七日、信濃川事件(近年の地元研究者は「中津川事件」と呼称)現地報告集会、

信濃川事件は一九二二年七月、読売新聞が最初に報道した。「信濃川に朝鮮人労働者の死体、何体か流れつく」と刺激的な見出しであった。当時「信濃川朝鮮人虐殺事件」と呼ばれた事件の発覚であった。実際に死体が発見されたのは上流の中津川であり穴藤(けっとう)の発電所を建設中の労働者であった。

事件発覚後『東亜日報』は記者を新潟現地に特派し水力発電所建設現場の穴藤地区を中心に朝鮮人労働者への虐待、虐殺の調査と取材をもとに連載記事を掲載した。

中浜哲は『労働運動』第七号一九二二年九月十日発行号に現地報告を掲載している。

「信越の監獄部屋から」自由労働者同盟 濱鐡 [註 濱鐡は中濱鐡の筆名の変形]

 実地調査した『信濃川虐殺事件』の真相を送る。信濃川(千曲川)の支流たる中津川の下流、信州切明から越後大割野に至る信越の国境八里余りの間。これが信越電力会社を経営する大工事なのだ。千曲川に呑まれる下流の大割野に第二発電所あり、それを遡る二里の下穴藤に第一発電所がある。…監獄部屋を作るには絶好の箇所だ。

…日本土木株式会社(即ち大倉組)が、大割野、前倉間。大請負師大林組が前倉、切明間を請負ってゐる。更にその又下に沢山の頭連があって、総数二十余りの飯場小屋をおッ建てゝゐる。その奴隷供給地は、主として不景気でアブレてゐる九州、朝鮮だ。近傍の信越の地方だ。失業者、自由労働者、小作人などの群れが、百人、二百人とまとめて貨物同様に部屋へ連れ込まれて来るんだ。…」

 朝鮮人虐待の全ては大倉組の大頭目によって引き起されたと『東亜日報』の記者は報告している。そして九月七日の前日に演説会の開催記事が掲載される。

《新潟県虐待事件と反響、空前の大演説会、朝鮮人と日本人の連合で七日東京で演説会開催、東京から特派員 李相協》

「…七日午後七時から、神田美土代町の青年会館で大演説会を開くことを決定した。…すでに決定した演士は次のとおりである。

△朝鮮人側 鄭海雲、羅景錫、朴烈、鄭泰成、白某(註・白武)、金鐘範、申某、金烔斗、李康夏

△日本人側 …憲政会代議士・山道襄一、革新倶楽部代議士・中野正剛、堺利彦、大杉栄、中濱鐡、小牧近江、松本淳三 朝鮮側主催でこれほど大規模な演説会が開催された前例はない。それだけに世間の熱い注目をあつめてり、警戒は今からすでに非常に厳重である。」一九二二年九月六日『東亜日報』

補足(2008年4月14日)


一九二二年の朴烈の主な活動

一九二二年一月四日 一一名の連名で『朝鮮日報』紙一月四日号に「同友会宣言」を発表

一九二二年四月 淀橋署に一六日間検束。[英国皇太子来訪のため予防拘束]中浜は皇太子の訪問地を移動。

一九二二年四-五月 金子文子と同棲、

一九二二年七月一〇日『黒濤』創刊

一九二二年八月一〇日 『黒濤』第二号                 

一九二二年八月 信濃川虐殺真相調査会が組織され調査委員として参加、中浜哲も現地調査。

一九二二年八月頃 新潟現地調査に赴く。[新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か]

一九二二年九月 中西伊之助「不逞鮮人」(短編小説)『改造』誌四巻九号に発表

一九二二年九月七日 調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」朴烈は現地調査を報告

一九二二年 ソウルの思想研究会から招待され「信濃川虐殺真相報告演説会」に出席

一九二二年一一月 黒濤会分裂は決定的になる。黒友会の成立。「日本における鮮人労働運動黒友会」申煖波(『労働運動』一〇号、二三年一月一日)

一九二二年一一月七日頃『太い鮮人』第一号発行 枠外に「フテイ鮮人」と記載「破れ障子から」金子文子、朴烈『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

一九二二年一二月一九日 頃『太い鮮人』第二号発行「所謂不逞鮮人とは」朴文子



この事件の研究文献としては
『新潟近代史研究』第三号八二年
「中津川水力発電所における朝鮮人労働者虐待・虐殺事件、東亜日報掲載の資料紹介」張明秀。

『在日朝鮮人史研究』「新潟県中津川朝鮮人虐殺事件」佐藤泰治、八五年がある。

『亜細亜公論』が「事件」に対する感想をハガキでのアンケート回答として掲載している。社会主義者や朝鮮にゆかりのある文化人の回答が掲載されている。



「新潟県中津川朝鮮人虐殺事件」佐藤泰治、八五年より部分メモ

はじめに
朝鮮人有志の現地調査が続く
決定的証拠をつかめぬまま退去せざるを得なかった
限りなくクロに近い灰色事件として迷宮入りとなった
1979年に着手された『津南町史』の調査執筆の一員に加わった
証言可能な古老は十指に余る
当初町の全面的協力もあって掘り起こし作業は順調に進んだ
『新潟日報』で紹介されるや津南町の態度が硬化
1984年秋『津南町史編集資料』一九集に所載さるべき原稿がボツとなる


8月11日以降は各紙の「情報源」が一本化、報道管制下となった
内容は「鮮人虐殺は誤報」を趣旨とした

8月15日以降の調査
穴藤地区
 朝鮮人人夫 867名 多数の虐待の確認 虐殺の事実は掘り起こせなかった

1923年6月段階の新潟県下2,700人の朝鮮人はその大半が第一の各工区に分配
されていたと考えざるを得ない、朝鮮人の占める比率は三分の一前後

76頁
証言 涌井K氏 明治40年4月28日生
 「河水に投じた」に限定しなければ合計百人位の朝鮮人が虐殺されたのは
多分事実であろうとの所感を抱かれ、前倉、大赤沢地区でも
「一番危険な隋道工事にあてられていた白い衣をまとった朝鮮人が毎日村はずれの火葬場で焼か
れていた」と古老が語ってくれた。


証言7
涌井H氏 明治40年9月9日生
朝鮮人の逃げたのを柱に結わいつけて頭の毛を、
ちょんまげを俺見てたら鉈で切った。
棒のでけぇのでアンチャンてのが叩く
たびたびあったナ

証言8
N・M氏 明治40年8月22日生
二〇貫のセメント樽の板をはいで持っていた中島の
棒頭が監督をしていた。
この板でケツをひっぱたいた。
朝鮮人の方がいじめられた。
言葉は悪いがほとんど奴隷扱いで仕事に耐えられないで逃げていくと
番人がいて…二三人づつ棒を持っていた。
つかまれが死ぬくらいたたかれた。しも手の割野の方へ逃げる。
上は飯場だらけだから。中島の仕事場は沈砂地。怪我で死んだ者などは
そこらへ埋めたり捨てたんでしょう。
リンチはとても見てられない。略
日本人の場合でも。朝鮮人ほどにしなかったが。

石沢松三郎
あちこちの樹木には縊死体がぶらさがっているのを何度も見た。
尤もいちいち警察に届けることもなかった。
関わりあいになるのもいやだし、無政府状態みたいだった。
村の人も飯場をこわがりなかなか近づかなかった。

N・M氏
「虐殺は?」
そういうことはあるね。あったと思うね。
あったと思うし… この高野山テのがあるでしょう。
あこらへんでは(朝鮮人が)埋められたんではないかね。
発電所のあこらの鎮守の下の堰堤のつきあげた…
ああいうところでは人柱となって入ったんじゃないか。おそらく
そう思うね。水の中へぶち込んでコンクリートを流しこんだり
…親方であるか、誰だかのいいつけでやれやれなんていって
やったんでしょう。かなり死んでいると思う。

N・G氏 明治39年6月5日生
10年前(1973年・1983年時点)に発電所を少し大きくしましたね。
その当時も少し、三年ばかり手伝いましたが、この上の、
あこの、あの一番上の原から そこを掘るなんて…
人骨がこんなダンボールに一つくらい出ました。
…誰か死んだんだとか何とか話がちっともなかった(所である)のが、
そういう今掘り返してみても、そういうのが出るんだから、当時は
残虐なことをやったこともたしかな事実なんじゃないでしょうかね。

そこは落盤事故のあった場所でなく、掘った穴から出たのだから、当時
新聞などに載ったン(虐殺事件)が本当だつたかもしれない。噂はありまし
たよ。

小林幸治郎氏 大正10年12月16日生
熊谷組で一緒に働いていた友人が鉄管路を
支える一番下のコンクリートを掘っていたら、
突然ポコッと穴があいて白骨が出てきた。
それは一体きりだったが、あまり面倒になるのも
困りものなので、上の方には話さず監督くらいに
話をしてその辺りに始末してしまった。
この他にも噂のあった下の堰堤など、若い衆が
嫌がるので十人くらいの者に酒を日本許りふるまった
が、結局堰堤は下まで全部壊さないでやめてしまった。

涌井Y氏 明治33年8月26日生 嫁のK氏の助力
「虐殺の真偽のほどは?」
K氏
実際に逃げた鮮人がつかまって、山の中で。
ぐるぐる巻きにして、冬の時に、冷たい川の
中につけたのを見たんですって、
父が…まァいろいろ人の眼につかないようにしたんでしょうが
…随分ひどいことをしたものですね。
K氏
父の話ですが、森宮野原で、朝鮮人があそこから(信濃川へ)
とび込んだ。あそこまで追いかけられて、逃げられない…と。
あそこから水の中へ飛び込んだというです。
「その方は死んじゃたんでしょうか」
Y氏 おう。もちろん。

81頁
こうして中津川事件はその真相迷宮入りとなって今日まで至った。

李相協らの調査を中心に
1920年死亡3人

94頁
工夫総数 1922年7月1,200人 867人 東亜日報
     1922年8月3,000人 800人余 「新毎」大正11年8月20日

[PR]

by futei7 | 2010-08-01 10:33
<< 「又観先生 誕辰111周年、国... 金東椿さん講義 >>