山歩き・不逞 其の七


山歩きと韓国
by futei7
外部リンク
最新の記事
以前の記事
その他のジャンル
画像一覧

再びの仁王山

d0183631_1017385.jpg

 サジック公園を抜けて30分ほど道路を歩き登山口に至りました。
すぐに沢沿いの登山道になります。

d0183631_10174939.jpg

 昼は暑いので夕方に登り始め。4時45分にスタート、当初は年配の方と前後しました。


d0183631_10183397.jpg


 薬水が湧く岩場。

d0183631_10191093.jpg


d0183631_10213154.jpg


 薬水の岩場がまた現れました。

d0183631_10231861.jpg

 右側に南山とタワーが望めます。
d0183631_1024027.jpg

中央、ビル群の下に長方形の林のように緑が見える地点が景福宮

d0183631_10242930.jpg


尾根筋に出るとソウル城郭の新設工事が進んでいました。

d0183631_1025238.jpg


朝鮮王朝時代は農閑期に農民を動員して築いた城郭です。
西陽を浴びて気温は30℃台半ばを越えていると思います。


d0183631_10255310.jpg


標識と鉄鎖の間に頂上が見える向かいの山は北岳山。

d0183631_10262421.jpg

仁王山の頂上です。

d0183631_10265615.jpg

景福宮が観えます。長方形に樹木が植えられ景福宮の施設を囲んでいます。

d0183631_10273290.jpg

 右方向が南山です。ビル群の手前に樹木が並行している地域がキョンボックン・景福宮です。
d0183631_10275820.jpg


真ん中の銀色のラインが漢江です。夕方5時20分。
d0183631_1028252.jpg


d0183631_10314798.jpg

下りの道。
d0183631_10321931.jpg

薬水を汲みやすくしています。

d0183631_10324726.jpg


d0183631_10341251.jpg

登山口の注意書き。


『山の本』2010年9月発刊 連載「読書三到」
金袋山
ミズナラの巨木の辺りから道筋ははっきりしなくなった。一帯は落ち葉が深く積り、前夜の強い雨にもかかわらずぬかるみはなかった。樹林が落着かせる雰囲気を醸し出していた。穏やかなエリアである。里から離れているが人々が馴染み歩いてきたような気配を感じる。
 ミズナラは保護されていた。朽ちた倒木が組み合わせられ、巨木の周りを囲んでいた。


画像リンク
2010年7月10日 金袋山 1,325m 奥多摩・日原 ミズナラの巨樹



 日原鍾乳洞の先の登山口からミズナラの巨木あるいは標高一三二五mの金袋山の頂上を目指すという山行を企画したOGさんは、金袋山の位置に関するエピソードを披露してくれた。
久能山東照宮と日光東照宮を直線で結び、どちらからも等距離、つまり真中に位置するという。この位置に金袋山が在るのは偶然なのか、位置するポイントを金袋山と名付けたのであろうか。試しにランニングの距離を測る「距離測定」のウェブサイトで両地点を結び、大まかに金袋山あたりで距離を計測した。確かに真ん中であった。
今はインターネット経由の画像を通して地球規模から住んでいる住居まで鳥瞰できる時代であるが、いにしえにこのような位置関係、後から建立した日光東照宮の位置がどのように定められたのか興味をそそられる。
 
石川啄木

百年まえに東アジアを鳥瞰できた詩人
がいた。石川啄木である。一九一〇年九月九日に「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」と詠む。
近代文学の研究者である瀧本和成は前年からの啄木の心情を解析し、この歌は「侵略批判」として詠んだのではなく、同情心の表現であるとしている。「石川啄木と朝鮮」(『韓流百年の日本語文学』所収、人文書院)
 さらに啄木による幾重の「悲しみ」は「日本の青年が強権に対して確執をもたないことの」悲しみ、不幸であるとし、
国家が怨敵と自覚する機会がないことへの二重の悲しみ、不幸が表出されているという。



江華島

そのかつての朝鮮国の南半分である韓国を金袋山行きからほどなくして訪問した。
滞在中にソウルから二時間程かかる北朝鮮と国境を接している江華島に向かった。午前も遅く出たので島のバスターミナルに着いたときは午後にかかっていた。
東南部の観光地エリアを結びサイクリングロードが作られ、貸自転車店もあるというので利用することにした。
訪問の第一の目的は、一八七五年に日本の軍艦「雲揚号」が最初に朝鮮政府軍の守備隊と交戦をした地点である草芝鎮チョジジンを訪れることであった。
店から出発し間もなく草芝鎮まで一三キロと道路標識に大きく示されていた。スピードが出ないマウンテンバイク仕様の自転車のペダルを力まかせにこぐが海風は吹かずほとんど凪の状態であった。
江華島には歴史のエピソードが多くある。
時間の余裕があれば登るつもりであった標高五百メートル近い摩尼山は古代朝鮮王朝の起源、檀君降臨という神話の場所である。
サイクリングロードを走りながら摩尼山が含まれているかもしれない低い山並みを眺めた。
草芝鎮は石畳と防御壁の砲台が復元されていた。本土と数百mしか離れていない狭い海峡を眺め、日本による一四〇年近く前の侵略の始まりを想起した。
この江華島事件における日本側の対応が解明されてから一〇年もたっていない。二〇〇二年、歴史研究者の鈴木淳が「史料紹介」として『史学雑誌』一二月号に論文を発表した。防衛庁防衛研究所戦史部図書館所蔵の「明八孟春雲揚朝鮮廻航記事」綴り所収の報告書を分析し、戦争行為が三日間にわたっていた事と、これまで主張されていた飲料水の確保という侵入目的の虚偽を明らかにした。


市民宣言

大韓帝国と国号を変えた隣国を強制併合したのは一九一〇年、八月二二日であった。
日本あるいは韓国に住む市民による「韓日共同市民宣言」の起草に関わった。
植民地支配の責任の決着、解決が二一世紀になってもつけられていない。東京で主催した「宣言大会」には一千人近くの参加者があった。二九日にはソウルの成均館大学で同様の大会が開かれ参加した。

 翌日、徳寿宮やロシア、イギリスの大使館がある貞洞の歴史散策の後、サジック公園から標高三三八mの仁王山に向かった。
 公園を抜け金網のフェンスで囲われた登山口に着いたときは夕方の五時少し前であった。西日により思ったほど気温は下がらず、暑さは体力を消耗させ花崗岩に面した急登では幾度となく呼吸を整えた。
 頂上直下で振向くと漢江が陽光にきらめき銀色の帯となりソウルの街を分けていた。
大統領府の青瓦台など政府施設が山ろくにあるため警戒中の若い兵士から「月曜日は登山の休日だ」と警告をされた。
百年前に国を奪われた悲しみや怒りをもちこの山の頂きから直下の景福宮や街を望んだ朝鮮の人々がいたであろう。
世紀を越えても被植民地化の影響と国の分断は持続している。兵士の存在は未だこの国が終戦に至らない証である。

[PR]

by futei7 | 2010-08-30 10:14
<< アート・低山 藤野町 昌徳宮、成均館の裏山 >>