山歩き・不逞 其の七


山歩きと韓国
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義烈団と朝鮮革命宣言

 「朝鮮革命宣言」原掲載ブログ
1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した。

KBS歴史スペシャルより
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朝鮮革命宣言

『朝鮮革命宣言』表紙
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大審院作成日訳全文

<原史料は『朴烈・金子文子裁判記録』大審院所蔵・80年後に翻刻>


朝鮮革命宣言(訳文)<1925年朴烈公判記録に添付された文献>
一、強盗日本が我国号を無くし政権を奪ひ吾等の生存的必要条件を皆剥奪したり。経済の生命たる山林、川沢、鉄道、鉱山、漁場乃至小工業原料迄悉く奪ひ、一切の生産機能を刃を以て切り、斧を以て絶ち、土地税、
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家屋税、人口税、家畜税、百一税其の他各種雑税が逐月増加して血液の有る丈け悉く吸収され、若干の商業家等は日本の製造品を朝鮮人に売買する仲介人となりて漸々資本集中の原則の下に於て滅亡するのみ。大多数人民即ち一般農民は血汗を流して土地を耕作して終年所得を以て家族の口糊を凌ぐ丈けの余裕も出来得ずして、吾等を殺食し居る日本強盗に提供して彼を肥しやる永世の牛馬となるのみか、其の牛馬の生活も許さざるべく日本移民が年々高度の速率を以て増加し、下駄足に踏まれ吾民族は足踏む土地も無くして山に野に西間島に北間島に西伯利亜の荒野に駆逐せられ餓鬼となり流鬼となるのみ。


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強盗日本が憲兵政治、警察政治を励行して我民族の行動を寸歩も任意に為さしめず、言論、出版、結社、集会の一切の自由を失ひ、苦痛と憤恨に堪えざるも、唖者の腹痛の如く幸福と自由の世界には盲者同様子女には日語を国語とし、日文を国文とする奴隷養成所の学校に収奪し、時に朝鮮歴史を読ませるときには檀君を素戔鳴尊の兄弟なりと偽り、

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三韓時代漢江以南は原日本の領地なりと称する日本人の作りたる儘を読ましめ、新聞又は雑誌には強盗政治を賛美する日本化奴隷的文字のみ記載しあり、稍々気概ある子弟は環境の圧迫に依り厭世絶望の堕落者になるか又否らざれば陰謀事件の名称の下に監獄に拘留せられ周穿(両股に棒を挟み圧する拷問)、枷鎖(重き板の中央に穴を穿ち其の穴に頭部を入るるもの)及烙刑鞭撻、電気烙針刺、手足を縛して釣り下げる、鼻に注入、生殖器針刺、其の他所有悪刑即ち野蛮専制国の刑罰辞典にもなき刑を受け、僥倖にして獄門を出ずるにしても終身不具廃疾となり、然らざるものにありても発明創作の本能は生活の困難に依り断絶せられ、進取活発の気象は周囲の圧迫に依り消滅せられ、苦情も言ひ得ざる様各方面の束縛、鞭笞駆迫圧制を受け、環海三千里が一個の大監獄となりて、我が民族は全然人類の自覚を失ふのみならず自動的本能をも失ひ、奴隷又は機械となりて強盗の使用品になるのみ。強盗日本が我等の生命を草芥視し、乙巳以後十三道に義兵起るや各地方に日本軍隊の暴行は枚挙する能はず、最近三月一日独立運動以後木原宣川国内各地より北間島、西間島、露領沿海州各州に至る迄居民を屠戮し、村落を焼き払ひ財産を略奪し、
婦女を汚辱せしめ、首を切り、生きたる儘を埋め、火を以て焼殺し或は体は二つ三つに切り離し、児童に悪刑を加へ、婦女の生殖器を破り、出来得る限り惨酷なる手段を用ヰて恐怖と戦慄を以て我が民族を圧迫して人間を生きたる死骸を為さしめつつあり。以上の事実に依りて我等は日本強盗政治即ち異族統治が我朝鮮民族生存上の敵たるを宣言すると同時に、吾等は革命手段を以て敵たる強盗日本を殺伐するを以て正当の手段なるを宣言するものなり。

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二、内政独立又は参政権或は自治を運動する奴等は何人なりや。汝等が東洋平和韓国独立保全等を担保する盟約が其の墨痕乾かずして三千里の境土を蚕食せられたる歴史を忘却し居るや。朝鮮人民生命財産自由保護、朝鮮人民幸福増進等が申明したる宣言を為すや、時を移さずして二千万生命の地獄に落ちたる実際の状況を見ざりしや。三月一日運動以後に強盗日本が我等の独立運動を緩和せしむる為
宋秉畯、閔元植等一二の売国奴を操縦して如斯狂論を称しめたるものなれば、之に附和するものは盲人にあらざれば奸族なり。縦し強盗日本が果して寛大なる度量ありて慨然として是等の要求を許諾するにせよ所謂内政独立を得、各種の利権を取戻すにあらざれば朝鮮民族は一般に餓鬼になるのみならず又参政権を獲得するにせよ自国の無産階級の血液迄搾取する資本主義強盗国の殖民地人民となりて若干奴隷代議士の選出を以て餓死の禍を救ひ得るや。自治を得るにせよ如何なる種類の自治を問はず日本が其の強盗的侵略主義の標的たる帝国なる名称が存在する以上は、其の下に附属せらるる朝鮮人民が自治の虚名を以て民族的生存を維持し得るや。
例令強盗日本が突然仏様の心を以て総督府を撤廃し、各種の利権を吾等に還附し、内政外交我等の自由に任せ、日本の軍隊警察を一時に撤廃し、日本の移住民を

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一時に召還して虚名の統治権のみを存在せしむるにしても、我等の過去の記憶が全然消滅するにあらざれば、日本を宗主国として奉戴することは恥辱の名詞を知る人類としては難忍難事なり。日本強盗政治の下に文化運動を称へるもの何人なりや。文化産業と文物、物の発達したる総積を指したる名詞なれば、経済剥奪の制度の下に生存権を奪はれたる民族は其の種族の保全さへ疑問なるに、況や文化発展の可能性ありと云ふべきや。衰亡したる印度族、猶太族は文化ありと雖這は金銭の力を以て其の祖先の宗教的遺業を継続し、其の土地の広大、人口の衆を以て上古の有由発達したる余沢を保守し得たる所以にして、蛇蝎犲狼の如く人血を吸収して骨髄迄も咬まるる強盗日本の口に嵌り込みたる朝鮮の如き地位に於て文化の発展又は種族保守を存し得たる例あるや。
検閲押収所有圧迫中に幾個の新聞雑誌まで文化運動の木鐸と自名し、強盗の心理に反せざる言論位を言唱して是を以て文化発展の過程と見るならば、其の文化発展が却て朝鮮の不幸なりと云ふべし。
以上の理由に依り吾等は吾等の敵たる強盗日本と妥当せんとするもの即ち内政独立自治運動、参政権論者又強盗政治の下に寄生を甘ずる主義を持つもの即ち文化運動者等は何れも我敵なるを宣言す。
三、強盗日本を駆逐すべき主張の内に尚左の如き論者あり。第一は外交論なり。李朝五百年文弱政治が外交を以て護国の長策と認め、
其の末世に最甚しく甲申年以来維新党守旧党の盛衰が殆んど外援の有無に依て決せらるる為政者の政策は、

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唯甲国を引いて乙国を制するに過ぎず、其の依頼の習性が一般政治社会に伝染せられ甲午甲辰両戦役に日本が数十万の生命と数億万の財産とを犠牲にして清露両国を排斥し、朝鮮に対して強盗的侵略主義を貫徹せむとするに際し、我朝鮮の祖国を愛し民族を救ふと称する人等は一剣一弾を以て昏庸貪暴なる官吏又は国賊を討つこと能はずして照会文位烈国公使館に寄せ、長書を日本政府に寄せて国勢孤弱を哀訴して国家存亡、民族死活の大問題を外国人又は敵国人の処分のみに仰ぎたり。
而して乙巳年条約庚戌年併合即朝鮮と云ふ国号ありて以来数千年間初めて受くる恥辱に対し、朝鮮民族の憤怒的表示として僅に哈爾賓の銃、鐘峴の剣、山林儒生の義兵あるのみ。嗚呼、過十年の歴史たるや、勇者にして之を見れば唾罵すべく、仁者にして之を見れば傷心するのみ。然るに国亡以後海外に出でたる某々志士等の思想は何よりも外交を以て唯一の能事とし、国内人民の独立運動煽動方法も未来の日米戦争、日露戦争等の機会に来すべしと論ずるもの殆んど多し。最近三月運動に一般人士の平和会議国際聯盟に対する過信の宣伝が却て二千万民衆の奮闘前進の意義を打消したる媒介物たりしのみ。第二は準備論なり。乙巳条約の当時列国公使館に雨の如く降り投げたる紙片を以て例したる国権を扶持する能はず。丁未年の海牙密使も独立恢復の福音を齎すこと能はずして段々外交に対する疑問発生し戦争するに不如と判断せられたり。
然れども軍人もなし武品もなし、何を以て戦争を為すや。山林儒生等は春秋大義には成敗を計らずして義兵を募集し、大冠大衣を以て指揮の大将と為り、狩猟者の火縄銃隊を集めて朝鮮日本戦争の戦闘線に立つことになりたるも、稍新智識ありて新聞位読み
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時勢を斟酌すると云ふもの等は戦闘する勇気もなく、今日では日本と戦争すると云ふ事は妄動なれば、銃器も製造し、資金も調達し、大砲も求め、将官及士卒となるべき人物を養成したる後にあらざれば日本と戦端を開く能はずと主張せり。是即ち所謂準備論者にして戦争を準備すると云ふ派に属す。外勢の侵入加はるに伴ひ吾等の不足を一層に感覚せられ、準備論の範囲が戦争以外迄拡張せられ、教育の振興及商工業の発展は勿論、其の他部分迄準備すべき論に及べり。庚戌年以後各志士等が或は西北間島森林を辿り或は西伯利亜の寒風に晒され或は南北京方面に徘徊し或は米州布哇に渡り或は京郷に出没して十余里星霜内外外地に於て喉が裂くる迄準備論を唱へたり。然れども彼等の勢力の不足にあらずして実は其の主張を誤りたるものなり。強盗日本が政治経済両方面を以て攻め来り、経済が日々困難に陥り、生産機関は全部剥奪せられ、衣食の方策を断絶せられたる場合に際し、何を以て実業を発展し教育を拡張し、就中、何所に於て幾何の軍人を養成し得るや。養成せむとするも日本戦闘力の百分の一をも比較するを得べきや。実に一場の寝言にすぎず。以上の理由に依り吾等は外交論、準備論者羅の迷夢を捨てて民衆直接革命の手段を取るべきことを宣言する所以なり。

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四、朝鮮民族の生存を維持せむとするには強盗日本を駆逐すべく、強盗日本を駆逐するには革命を以てするのみなり。革命にあらざれば強盗日本を駆逐する方法なかるべし。而し我等が革命に従事せむとすれば如何なる方面より着手すべきや。旧時代の革命を以て論ずれば人民は国家の奴隷となりて、夫れ以上に人民を支配する上典即ち特殊勢力の名称変更するに過ぎず。換言すれば、乙の特殊勢力を変更するにすぎざりしものなり。夫れ故人民は革命に対して唯甲乙両勢力即新旧両上典の何れが仁にして何れが暴なりや、又何れが善にして何れが悪なりやを見て其の向背を定めるのみにして直接の関係は殆んど無かりし。
故に其の君主を誅して其の人民を愛撫するを以て唯一革命の宗旨とし、箪食壷漿を以て王師を迎へるが民衆革命の唯一の美談となりしも、今日の革命を以て論ずれば、民衆が民衆自己の為になす革命なるを以て民衆革命又は直接革命なりと称す。民衆直接の革命なるが故に其の沸騰膨張の熱度が数字上の強弱を比較する観念を打破し、尚其の結果の勝敗が常に戦争学上の定軌を逸出して無銭無兵の民衆を以て百万の軍隊、億万の富力を有する帝王も打斃し、外寇を駆逐す。依て吾等の革命の第一歩は民衆覚悟の要求なり。然らば民衆が如何にして覚悟をすべきや。民衆は神人聖人又は英雄豪傑が出て民衆を覚悟せしむべき指導に依て覚悟するものにあらず。民衆よ覚悟せよと熱叫する声に依りて覚悟するにあらず。

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唯民衆が民衆の為に一切の不平、不自然、不合理なる民衆向上の障碍を打破するを以て民衆を覚悟せしむる唯一の方法とす。換言すれば、即ち先覚の民衆が民衆全体の為に革命的先駆者たるを民衆覚悟の第一路とす。一般民衆が饑寒困苦に迫まり、納税の督促、私債の催促、行動の不自由と所有圧迫に依り生きむとしても生き得ず、死むとしても死する能はざる境遇に於て、其の圧迫の主因たる強盗政治の施設者を打倒し、強盗一切の施設を破壊して福音が四海に伝はり、万衆同情の涙を振つて人々が其の餓死以外に革命と云ふ一路が開かれたるを覚り、勇者は其の義憤に堪えず、弱者は其の苦痛に堪えずして皆此の道に集注して継続的に進行し、普遍的に宣伝して挙国一致の大革命となれば、奸猾残暴なる強盗日本が畢竟駆逐さるべし。 
夫れ故吾等の民衆を喚醒して強盗の統治を打倒し、吾が民族の新生命を開始せむとするには十万の兵を養成するより一擲の爆弾を要し、億千枚の新聞雑誌が一回の暴動に不如。民衆の暴力的革命が発生せざれば兎も角一旦発生したる以上は恰も懸崖より転下する岩石の如く目的地に到達せざれば停止することなし。
吾等己往の経過を以て見れば甲申政変は特殊勢力が他の特殊勢力と衝突する宮中一時の活劇にして、庚戌前後の義兵等は忠君愛国の大義の下に激起したる読書階級の思想なり。安重根、李在明等烈士の暴力的行動は熱烈なれども、後面に民衆的暴力の基礎力なく三月一日運動の万才の声に民衆的一致の意義が瞥現せられたるも是又暴力的中心を有せざりしものなり。民衆的暴力両者の中、其の一を欠けば如何なる轟然壮快の挙動なりと雖、雷電の如く終息さるるを免れず、朝鮮内に強盗日本の製造したる革命原因が山の如く積もれり。何時にても民衆の暴力的革命が開始せられ、独立せざれば生存せず、日本を駆逐するにあらざれば退かずとの口号を以て

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継続前進しなば目的を貫徹すべし。是は警察の剣、軍隊の銃又は奸猾なる政治家の手段を以て防止し得べきものにあらず、革命の記録は必ず惨絶壮絶なる記録となるべし。然れども退かば後面は暗黒の陥穽にして、進めば前面には光明の活路あり。我が朝鮮民族は其の惨絶荘絶なる記録を以て前進すべし。茲に於て暴力、暗殺、破壊、暴動の目的を大略挙ぐれば、
一、朝鮮総督及各官公吏
 二、日本天皇及各官公吏
 三、探偵奴、売国賊
 四、敵の一切施設物
此の外地方の紳士又は富豪にして特に革命運動を妨害したる罪跡なきも、若言動を以て我等の運動を緩和し或は中傷するものは吾等の暴力を以て衝るべし。日本人移住民は日本強盗政治の機械として朝鮮民族の生存を威脅する先鋒たるを以て是又吾等の暴力を以て駆逐すべし。

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五、革命の道は破壊より開拓すべし。然れども破壊の為に破壊するに非ず、建設するが為破壊するものなり。若建設を知らざれば破壊する道も知らず、破壊するを知らざれば建設する道も知る理なし。 建設と破壊と形式上に於て区別あるのみにして、精神上に於ては破壊即建設なり。之を論ずれば吾等日本勢力を破壊せむとする目的は 第一異民族統治を破壊するなり。如何となれば、朝鮮と云ふ上に 日本と云ふ異民族其のものが専政を行ひ、異民族専政の下に居る朝鮮は固有的朝鮮にあらざるを以て固有的朝鮮を発見する為異民族統治を破壊するものなり。
第二は特権階級を破壊するにあり。何となれば、朝鮮民衆の上に総督だの何だと云ふ強盗団の特権階級が圧迫し居れり。特権階級の圧迫の下に居る朝鮮民衆は自由的朝鮮民衆にあらざるを以て自由的朝鮮民衆を発見する為特権階級を打破すものなり。
第三は経済掠奪制度を破壊するにあり。何となれば、掠奪制度の下にある経済は民衆自己の 生活の為に組織したる経済にあらずして、民衆を殺食する強盗を肥やす為組織したる経済なれば、民衆生活を発展せしむる為経済掠奪制度を破壊する所以なり。
第四、社会的不平均を破壊するにあり。何となれば、弱者の上に強者あり、賎者の上に貴者あつて所有不平を抱いて居る社会は互いに掠奪、互いに剥削、互いに嫉妬仇視する社会となりて初めには少数の幸福を計る為多数の民衆を惨害したる結果、畢竟、少数の間にも惨害し、民衆全体の幸福が数字上零となるべし。故に民衆全体の幸福を増進せしむる為社会的不均等を破壊するものなり。
第五は奴隷的文化思想を破壊するにあり。何となれば、遺来の文化思想中宗教、倫理、文学、美術、風俗、習慣何れが強者の製造にして強者を擁護するものにあらざるや。


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一般民衆を奴隷化せしむる麻酔剤にあらざるや。少数の階級は強者と為り、多数の民衆は却て弱者と為りて不義の圧制に反抗し得ざれば、専ら奴隷的文化思想の束縛を受けたる所以なり。
若民衆的文化を提唱して其の束縛の鉄鎖を解くにあらざれば一般民衆の権理思想の薄弱となり、自由向上の興味が欠乏して奴隷の運命中に輪廻するのみ。故に民衆文化を提唱する為奴隷的文化思想を破壊する所以なり。換言すれば、固有的朝鮮を建設する為異族統治の略奪制度の社会的不平均の奴隷的文化思想の現象を打破するものなり。然らば破壊的の精神が即建設的主張なり、進めば破壊の剣となり、入れば建設の畑と為る。破壊する気魄なく建設する妄想のみあれば五百年を経過しても革命の夢も結ぶ能はず。茲に破壊と建設とが一にして一にあらざるを知るに於ては民衆的破壊の前には必ず民衆的建設あるを知るべし。現在朝鮮民衆は民衆的暴力のみを以て新朝鮮建設の障碍なる強盗日本勢力を破壊せざるべからざるを知り、朝鮮民衆が一団と為り、日本強盗が一団となりて彼が亡ぶにあらざれば我亡ぶべき一本橋上に行き会ひたるを知るならば、我二千万民衆は一致して暴力破壊の道に猛進すべし。
宣言の要旨は吾革命の大本営なり。暴力は我が革命唯一の武器なり。吾民衆の中に於て民衆と携手して不絶暴力暗殺、破壊暴力を以て強盗日本の統治を打倒し、吾生活に不合理なる一切の制度を改造して人類を圧迫すべからず。社会を以て社会を剥削すべからざる理想的朝鮮を建設するに在り。
四千二百五十六年一月 日
               義烈団



朝鮮総督府所属官公吏に
朝鮮総督府所属官公吏諸君、強盗日本の総督政治下に寄生する所の官公吏諸君、諸君は諸君の祖先より子孫に至る迄動かすべからざる朝鮮民族の一分子にあらざるか。若朝鮮民族の一分子なりとせば、仮令口腹と妻子との為強盗日本に奴隷的官公吏生涯の為すと雖、強盗日本の総督政治が我が民族の仇敵なるを知るべく、従て吾等の革命運動は即強盗日本の総督政治を破壊し朝鮮民族を救済せむとする運動なるを知るべし。之を知つたならば吾々の革命運動を妨害せざるべきをも信ず。然も尚之に妨害するものありとせば我々は斯る徒輩の生命を容赦せざるべし。
    四千二百五十六年一月 日
               義烈団

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# by futei7 | 2011-11-09 01:43

図書新聞座談会「近代日本の歴史の曲がり角には朝鮮がある」2010年9月14日

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上記座談会は初出の掲載紙のみでしか読めません。
2010年11月13日号2989号、11月20日号2990号の購読注文は
図書新聞バックナンバー注文フォーム




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# by futei7 | 2011-11-08 04:42

海をこえる100年の記憶

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# by futei7 | 2011-11-07 00:40

<朴烈クロニクル・関連文献刊行録>


<朴烈クロニクル・関連文献刊行録> 

1版 2003.10.29 

朴烈に関わる文献整理のために作成  改定2版 11.4 『自我人』二号の事項、新山初代の居住地と死去の項を追加

★朝鮮語文献、東亜日報、日本語新聞報道、アナキズム機関紙誌に報じられている関連記事は今後の課題 <一部は立項>

★金子文子が主となる事項は含めていない。

★原テキストに固有名詞の誤記がある場合も、そのまま引用している。



2版 2006.8.15

『民団新聞』記事★★が主たる追加、『統一評論』論文一部引用

 

1902.2.3 聞慶郡麻城面梧泉里に生まれる

1908   書堂に通学 1910   公立普通学校入学

1915   京城公立普通高等学校入学、日本人教員から幸徳秋水 の天皇暗殺計画の話を聞き思想的影響を受ける

1919.3   3.1運動に参加、独立新聞発行、檄文を散布

1919.10   学校を中退、故郷に戻った後、東京へ渡る、新聞配達、製ビン工場、人力車夫、ワンタン屋、夜警、深川の立ちんぼう、中央郵便局の臨時配達夫

1920.中頃  血挙団を組織 

1921.10   義挙団に加入

1921.10   本郷駒込で友達と間借り生活

1921.11.29 黒濤会、結成

1921.11月末か12上旬頃 朴烈が京橋区南小田原町、柴田武福を訪ねる。その晩の朝鮮基督青年会館演説会での演説依頼をする

1921.12月上旬か4日、岩佐作太郎方忘年会に出席、柴田、杉本貞一、神田区仲猿楽町カフエ「豊生軒」に立寄り、吉原に泊まる。

翌朝、柴田方で雑談の末「外国には爆弾が在るかと」尋ねる、杉本が答えると「夫れは至極好い物だ、是非夫んな物が欲しい」

(杉本は後に出鱈目と供述)

1922.1.4  11名の連名で『朝鮮日報』紙、1月4日号に「同友会宣言」を発表

1922.2頃  上海臨時政府の一員、崔?鎮から破壊計画 を伝えられる。

1922.3.7  秋田雨雀を訪問、『秋田雨雀日記』280頁

1922.4   淀橋署に16日間検束。<英国皇太子来訪のため予防拘束>

1922.4-5 金子文子と同棲、東京府荏原郡世田谷池尻412 相川新作方二階 現在地 世田谷区池尻2-31-15から17、国道246号下り方向「池尻」バス停辺り

2003年10月、世田谷区立中央図書館調べ、現地確認

1922.7.10『黒濤』 創刊号、東京府下世田谷池尻412  黒濤発行所、発行人兼編集人兼印刷人 朴烈 「直接行動の標本」烈生

1922.6.5「ボロ長屋の二階より」金子活浪、朴烈「朴烈から」

1922.8.10 『黒濤』第二号 「此の態を見て呉れ」烈生 

「思ったこと二つ三つ」ふみ子 

「東支線駐屯の日本軍」烈生 

「ボロ長屋の二階から」金子文子 

「朴烈から」    

「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 

「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子

1922.8   信濃川虐殺真相調査会が組織され調査委員として参加

1922.8頃 新潟現地調査に赴く。<新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か>

1922.9.7  調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」朴烈は現地調査を報告

1922    ソウルの思想研究会から招待され「信濃川虐殺真相報告演説会」に出席

1922.9   ソウルで義烈団員周辺にいた、金翰と会う

1922.10.2  大島製鋼争議支援

1922.11   黒濤会分裂

1923.11   黒友会を組織

1922.11   再びソウルで金翰と会う。爆弾の件

1922.11.7頃  『太い鮮人』第一号 枠外に「フテイ鮮人」と記載

「×××××取締法案」朴烈

 「日本人の自惚れた朝鮮観に就いて」烈生

「破れ障子から」金子文子、朴烈 『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の

虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

1922.12.19 頃 『太い鮮人』第二号

「亞細亞モンロー主義に就いて」朴烈

 「所謂不逞鮮人とは」朴文子

「学者の戯言」烈生 

「破れ障子から」文子

去四日朴烈が京城から病魔に護衛されて帰ったりオマケに十五日許り寝込まれたので

スッカリ喰い違って四苦八苦の揚句ヤット今日印刷屋へ廻すべく漕ぎつけた

「朝鮮の詐欺共産党」烈生 

「朝鮮古代芸術を排す」烈生

1923.1   秘密結社、血拳団組織

1923.1   ソウルで金翰と会い爆弾入手依頼

1923.3   黒友会機関紙『民衆運動』朝鮮文、創刊 

1923.3.15  『現社会』第三号 世田谷池尻412 「××」烈生  

註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」

「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、

後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 

「在日鮮人諸君に」金子ふみ 

「朝鮮○○記念日」金子ふみ

「破れ障子から」文子

1923.3   金子文子と東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地に移る。

現渋谷区富ヶ谷1-28 NTT裏辺り 2003年5月 現地確認

1923.4   不逞社を組織

1923.4   東亜日報主筆、張徳秀への殴り込みで神田署に検挙される、

市ヶ谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘

1923.5.1  金子文子はメーデーに参加

1923.5   来日したばかりの金重漢に爆弾運搬依頼

1923.5.21  朴烈、新山初代を訪問、不逞社への入会を勧める。

本郷区駒込蓬莱町一八、現文京区向丘二丁目、2002.11確認

1923.5.27  不逞社第一回例会、朝鮮の運動がテーマ

1923.6    金重漢に爆弾の件を取り消し

1923.6.10  不逞社第二回例会、望月桂を招く

1923.6.17  不逞社第三回例会、加藤一夫を招く

1923.6.28頃 不逞社第四回例会、中西伊之助出獄歓迎会

1923.6.30  『現社会』第四号 

代々木富ヶ谷 「朝鮮の民衆と政治運動」朴烈

「朝鮮の衡平社運動に就いて」朴烈

「スッパ抜キ」バクレツ 

「或る会話」金子ふみ 

「破れ障子から」文 実は同志十名許りが……メーデーの夕方丁度にも再び裟婆へとオッポリ出された……

……メーデーの日、私は他四五名の同志と共に……愛宕署の御厄介になって……一夜を明かした……… 

府下代々木富ヶ谷1474 現社会社 省線原宿、市電渋谷下車 名教中学下 <現東海大附属高校>

1923.7.15  不逞社第五回例会、親日派の『東亜日報』記者を殴る

1923.8.3   黒友会主催「朝鮮問題演説会」神田基督教青年会館で開く

1923.8.10  黒友会、臨時例会、解散を決める、金重漢が爆弾計画の話を暴露 

1923.8.11  不逞社第六回例会、馬山のストライキの話題、金重漢と論争

1923.8.29  警視庁が新山初代を訪れ不逞社の動向を訪ねる   

1923.9.1  午前中、滝野川、高麗社にいる張祥重を訪問

1923.9.2  四ツ谷の布施弁護士を訪ねる

1923.9.3  朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束

1923.9    不逞社のメンバーが検挙され始める

1923.10.20 東京地裁検事局、治安警察法違反容疑で朴烈と不逞社メンバーを起訴

1923.10.20 『大阪朝日』記事<不逞鮮人の秘密結社大検挙>

1923.10.22 予審判事、予審尋問を始める

1923.10.24 朴烈への訊問、陳述を拒否

1923.10.27 新山初代、予審尋問で供述を始める

1923.11.27 新山初代、病死、危篤状態で獄外に出される、谷中法蔵院に墓碑

1924.1.24  金子文子、第六回予審尋問にて朴烈の爆弾入手意図と目的を供述

1924.1.30  朴烈第三回予審訊問にて金子文子の供述を認める。

「自分が話さないと不逞社の仲間に迷惑がかかる」

1924.2.2  朴烈第四回予審訊問

1924.2.3  朴烈第五回予審訊問

1924.2.4  朴烈第六回予審訊問

1924.2.5  朴烈第七回予審訊問

1924.2.15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴される

1924.2    朴烈論文「日本の権力者階級に与ふ」を獄中で執筆

1924.4.2  朴烈第八回予審訊問

1924.4.10  朴烈第九回予審訊問

1924.5.12  朴烈第十回予審訊問

1924.5.20  朴烈第十一回予審訊問

1924.7.1  『東亜日報』記事「韓?相は6.24に保釈出獄」「李小岩は1924.6.30早暁ソウルの鍾路警察に検束」

1924.12   論文「俺の宣言」執筆

1924.12   論文「働かずしてどしどし喰ひ倒す論」執筆

1925.3   論文「陰謀論」を執筆

1925.3.9  朴烈第十三回、十四回予審訊問

1925.5.1  朴烈第十五回予審訊問

1925.5.2  朴烈第十六回予審訊問

1925.5.3  朴烈第十七回予審訊問

1925.5.9  朴烈第十八回予審訊問

1925.5.29  朴烈第十九回予審訊問

1925.6.6  朴烈第二十一回予審訊問

1925.7.7  予審終結決定

1925.7.17  検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法73条と爆取罰則で起訴

1925.7.18  判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類・物品の授受禁止にする

1925.7.18  朴烈第一回予審訊問

1925.8.2  『朝鮮日報』夕刊、記事「不逞社事件予審を終わる」

1925.8.22  朴廷植、証人訊問、大邱地方法院尚州支庁

1925.9.3  朴烈第二回予審訊問

1925.9.5  朴烈第三回予審訊問

1925.9.20  朴烈テキスト<刑務所消息 不逞の烙印>『自我人』第二号掲載

1925.9.22  朴烈第四回予審訊問

1925.10.12 検事総長小山、大審院第二特別刑事部裁判長判事豊島に大審院公判に付すべきという意見書提出

1925.10.28 大審院、公判開始を決定

1925.11.11 接見禁止を解く

1925.11.12 朴烈、金子文子、山崎今朝弥を私選弁護人として選任

1925.11.14 朴烈、金子文子、布施辰治、上村進を私選弁護人として選任

1925.11.17 公判準備調書作成のため朴烈に訊問

1925.11.20 朴烈、金子文子、中村高一を私選弁護人として選任

1925.11.21 『東亜日報』記事「大審院、重大犯人の結婚式」

1925.11.25 布施弁護士、結婚届け三通を差入署名捺印を求める

1925.11.25 朴烈、金子文子の記事が解禁

1925.11.25 『東京日日新聞』夕刊<震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件>

<来月八九両日特別裁判開廷(本日解禁)罪の裏に女!躍動する朴烈が内縁の妻金子ふみ>

<予審免訴十五名><変転の運命から逆徒の友へ><惨苦の中に真っ赤な恋>

<検束で名物の朴夫妻><同志の新山初題は獄死><新山初代 肺患に冒されヤケの生活>

<審問は傍聴禁止 宣告のみ公開><朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿>写真

<大逆事件の首魁朴烈とその筆蹟>

1925.11.25 『東京朝日』夕刊<震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画>

<近く刑務所で正式の結婚><自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈>

1925.11末か12初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会

1925.12.3  朴烈、金子文子、晋直鉉を私選弁護人として選任

1925.12.6 『東亜日報』記事<正式結婚、手続き>

1925.12.7 『東亜日報』記事<結婚に関して>

1925.12.11 『朝鮮日報』記事<獄中結婚は風説>

1925.12.14 『東亜日報』記事<書面上の結婚だけだろう>

1925.12.16 <鑑定人の報告>市ヶ谷刑務所内診察室に於て被告と初めて対顔

………「私はパックヤールです。併し私は鑑定の通知書を送り返し、

同時に鑑定を拒否する旨を既に大審院に申し送ってあるのに、

それに対しまだ何等の返事を受取りません故に私は大審院より何等かの返事を受取るまでは鑑定を受けることは断然謝絶します」

1925.12.22 論文「所謂裁判に対する俺の態度」執筆

1926.1   「朴烈君のことなど 冬日記」中西伊之助『文芸戦線』掲載

1926.1.18  朴烈、裁判長に対し法廷での四条件を提出

1926.1.19  『朝鮮日報』記事<条件を提出したこと>

1926.1.20  『東亜日報』記事<条件を提出したこと>

1926.2.13  朴烈、朝鮮大邱の弁護士、金完燮に公判出席を要請 

1926.2.25  朴烈、朝鮮大邱の金完燮を私選弁護人とする届け

1926.2.26  第一回公判、大審院、人定質問

1926.2   再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援

1926.2.26  文子手記「二十六日夜半」執筆

1926.2.27  第二回公判、金子文子手記朗読、検事論告死刑求刑

1926.2.28  第三回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

1926.3.1  第四回公判、弁論文子の最終陳述、朴烈はしなかった

1925.3.4  『東亜日報』社説「朴烈の思想行為と環境 牧野裁判長の観察」

1926.3.17 『朝鮮日報』社説「朴烈事件に鑑みて」安在鴻、執筆

1926.3.20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号  

在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。

後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか?

「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 

二月十六日午前九時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束十数名、

警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)

「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。

1926.3.23  結婚届けを出す

1926.3.25  死刑判決

1926.3.29 『大阪朝日新聞』

<恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子>

……判決後四日間、外界の何事も知らず市ヶ谷刑務所の独房で妻と夫も名ばかりで

会うこともならずただ黙々として静かな日を過ごしている、このごろの彼等への差入は、

朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は

朝は牛乳一合にパン一片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反し

て、文子は朝は鶏卵二つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は

晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文

子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をし

てきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっている

と、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨

県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か五分間変り果てた娘

の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、

一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第一日に着た

朝鮮礼装一揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が

完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身

の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着で

よいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の

最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝六時に起

き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、

……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語って

いました、……」 1926.3.30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」

1926.4.5  「恩赦」で無期懲役に減刑

1926.4.6  朴烈、千葉刑務所に移監

1926.4.6  朴烈、絶食を始める<「金子文子の自殺と恩赦前后の処遇」

布施文書には6日恩赦伝達後からと記されている>

1926.4.14  千葉刑務所長、絶食中止を説得

1926.4.15 『朝日新聞』記事<千葉刑に送られると朴烈は絶食を始める>

1926.5   「思出の朴烈君の顔」里村欣二『文芸戦線』掲載

1926.6   『朝鮮時論』創刊号、在朝鮮日本語雑誌「朴烈事件に鑑みて」の翻訳掲載

1926.7.23 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、

栃木駅から徒歩10分余り2003年7月23日 現地確認、刑務所跡を示す碑は無し、

舎房棟跡は文化会館正面入口前広場

1923.7.23以降 布施弁護士は朴列に面会、文子の死を伝えた瞬間に面会を打ち切り

1926.7.29  朴烈、金子文子の取調べ中の写真をめぐり怪文書が配布される

1926.8   不逞社のメンバーであった張祥重、鄭泰成が黒友会組織<『朴烈』より>

1926.8.11  立松懐清予審判事、快写真問題で引責辞職

1926.8.16 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く

1926.8.29 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る

1926.8.30 『京城日報』<文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と 

朴廷植釜山で語る>「釜山特電」獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取る

ため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子

朴烱來(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山

に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそ

ばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る、弟には身体の具合が悪

いというので面会ができなかったがいづれまた健康でも快復すれば面会に行きたいつ

もりです、文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが、警視庁から受取ってか

ら別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についている

でしょう、文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日

の取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう。写真のことについては

弟から送ってやるとのことで手紙は来ていましたが私はまだ見たこともありません、子供

は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通譯のために連れて行ったまでで

す。朴廷植は直に北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと

1926.9.14  『東京日日』記事「石黒鋭一郎手記、快写真の件」

1926.9.20  司法省、快写真の経緯を発表、真相を認める

1926    『政争化したる朴烈問題 』江渡由郎、青年政治協会 (青年パンフレット 第3輯)

1926    『朴烈問題の批判』鶉山学堂

1926    『若槻内閣と不景気・朴烈事件と憲政会内閣』豊島新聞社

1926.12.24 今村東京地裁所長無罪を宣告されるも、検事控訴される

1927.2   秋山市ヶ谷刑務所所長、大審院懲戒裁判所で無罪確定 秋山所長、奥村看守長懲戒処分を受ける

1928   「強者の宣言」朴烈、『叛逆者の牢獄手記』行動社同人編に掲載

1934.12   「入獄中のアナキスト朴烈の動静」『特高月報』内務 省警保局保安課、

1935   「大逆事件犯人朴烈の思想転向」『社会運動の状況』内務省警保局

1935.4  「入獄中のアナキスト朴準植の思想転向」『特高月報』内務省警保局保安課、

1935.8.9  『東京日日』記事「朴烈転向、新聞雑誌の閲読禁止」

1936.8   小菅刑務所に移される

1938.9   「朴烈の所感」朝鮮総督府高等法院検事局思想部『思想彙報』第16号

1943.8    秋田刑務所に移される、大館支所か?
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# by futei7 | 2011-11-05 13:46

朴烈クロニクル・関連文献刊行録 2

1945.10.27 朴烈、秋田刑務所大館支所を出獄、大館駅前で「出獄歓迎大会開かれる」

1946     『独立の指導者朴烈』鄭泰成、新朝鮮建設同盟宣伝部、国会図書館所蔵

1946?     『新朝鮮建国の指標:独立指導者 朴烈』 朝鮮半島における自由解放の指導者、

朴烈の獄中詩歌、在日朝鮮人同胞へのメッセージ、日本の新聞に対する声明等を収録した、

"独立指導者 朴烈"、及び、朴烈による新朝鮮建国に対する朴烈の信念・思想を収録した

"新朝鮮建国の指標"を収録。 University of Hawaii at Manoa 「Asia Collection,」

梶山コレクション所蔵

1946.12.25  『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房

1947.2.21「民団新間」創刊号発行。                  

1947.5.23 民団第二回大会。団長朴烈、副団長李康勲、元心昌。

1947.8.23 朴烈「三たび八月十五日を迎へて」『民団新聞』週刊13号、在日本朝鮮居留民団中央総本部★★

1947.8.30 朴烈「留日朝鮮学徒の進路」『民団新聞』週刊14号★★

1947.9.13 朴烈「主張第廿五回関東大震災」『民団新聞』週刊15号★★

…当時自ら「不てい鮮人社」と名乗った我々の同志も文字通り一網打尽に検挙されて有無を言わさず、全く投獄されてしまった。由来ゲーペーウー式の日本帝国主義的陰謀によって裁かれ、私は遂に死刑を宣告され、さらに彼等の勝手な判断によって終身の懲役に処せられ、さらにまた彼等帝国主義の世界戦争敗戦の結果として、二十三年余の獄中から、この明るい社会に出てきたのである。……

無署名記事「関東大震災廿五周年を迎えて」想起すれば当時大地震直後陸軍憲兵司令部の謀略に依り『朝鮮人三万名が日本無政府主義者と内応して日本襲撃に上陸して来た』と言う捏造のデマを廣島より全国に飛ばして置いてそれを口実にかかる不可抗力むの機会を逆用して日本軍部及青年団が白昼公然と国際社会の面前にかかる大事件を三日間も続けて敢行したのである……然しアナキスト系では、天変地異は不可抗力である。…本当の愛と相互扶助との懸念の下に、お互に相あわれむのみであった。…

1947.10月1、2日 民団第三回大会(大阪)団長朴烈。

1947年 張義淑と再婚

一九四八年八月一五日『新朝鮮革命論』朴烈、中外出版株式会社

目次

自序

第一章 思想立国

第一節世界は一なり

第二節 現実に徹する思想第

三節 共産党を語る第四節死に生くること

第二章建国の指標

第一節独立とは形式ではない

第二節具体的に建国の立地条件を究めよ

第三節戦線統一への方向

第三章青年と民族の運命

第一節立国の支柱としての青年

第二節操志ある青年

第三節高き文化の使徒青年

第四章生活革命運動の展開

第一節民族的欠陥の反省

第二節社会を発見せよ

第三節公式論、原則論を排す

第四節身を以て再起へ

付録一 三千万我等とともに罪あり

二 対日協力者戦争犯罪人等の処断に関する法案をめぐりて

三 祖国の正しき産業建設のために在日業界人の反省を促す

四 前科者、受刑者、現科者

五 祖国愛と国際的観念

六 世界の現実に学び、世界の現実に捉われる勿れ

七 われらは先ず道義の昂揚から

八 小児病的左翼陣の暴挙を排す

1948年11月20日 

『政党人に望む』発行人、朴義淑、東京都杉並区阿佐谷一丁目七四六番地、発行所、中野区野方町一丁目七三二番地、朴烈文化研究所

1949年4月2日 民団第六回大会、選挙に敗れて団長を辞任。   

1949年 朴烈は家族と共に韓国に向かう。李政権の国務委員となる

1950年4月 張義淑は二人の子、長男栄一と長女慶姫を連れて帰国

1950年6月25日 ソウルは南下した北朝鮮軍の動きにより混乱状況

1950年6月27日  張義淑、大元ホテルに止宿中の朴烈止連絡がとれたのは27日の未明。

「子供たちをつれて、すぐよその家へうつれ。今後連絡が絶えても、革命家の妻として、

恥ずかしく行動をせよ」朴烈はこれだけ言って電話をきった。たまりかねた張義淑が慶姫

(当時8ヶ月)を隣家にあずけ、栄一(2年4ヶ月)をつれて、大元ホテルまでたどりつくと部

屋には朴烈がひとり目をつむったまま座っていた。

「……国民のほとんどがソウルに残っているのに、おれだけ逃げられるか。帰れ」

…… 義淑は秘書に送られて桂洞まで戻る。夜になり雨が降り出した。

もう一度朴烈のところへ行こうと決心。……ホテルに出かけた。やっとたどりついたホテルに朴烈はいなかった。

…夜が更けるにつれ、砲声はいよいよ近く、機関銃が地底からのような音をひびかしている。

午前三時、砲声がやみサイレンが鳴った。北朝鮮軍が中央庁に入った合図にちがいない。

夜が明けると、幾千幾万とも知れぬ足音が聞こえ「人民共和国万歳」の叫びが伝わってくる。

……共産軍に捕らえられた朴烈の居所を察知しようとして西大門刑務所に出かけたのもそのころだった。

「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見より。朴烈、行方不明になる。

1960年1月   「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見『婦人公論』

1960年1月号掲載<再婚相手は東京 女子大で臼井ゼミの学生であった>

1963年3月、4月  「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』 

1966年6月   「共産主義者と私」朴烈、『統一評論』掲載

私は一時、日本で社会運動をおこそうと思い、政治団体を組織したことがあった。そして日帝の監獄にぶちこまれて苦労もしてみた。……

 私は共産主義者の幅広い度量とあたたかい同族愛に深く感動させられ、目頭が熱くなる時が一、二度ではなかった。…

 祖国と民族を憂えるすべての人々は、一切の外勢を排撃して、南北が力を合せて祖国の自主的統一を実現する大道を前進しなければならない。★★

1967年    『民団 在日韓国人の民族運動』鄭哲、洋々社

1972.6.30 『余白の春』瀬戸内晴美著

1973.7.23  ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地

1973.9.1  『朴烈』金一勉著、合同出版

1974.1.17  朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる

1975.8   「春一番」臼井吉見『展望』第200号掲載<解放後の朴烈と再婚、小説>

1976.3.20  山梨県東山梨郡牧丘町杣口の金子家の敷地で「金子文子の碑」除幕式

1977    『朴烈・金子文子裁判記録』再審準備会黒色戦線社<手書きのまま複製>

1981.6.22 栗原一男死去

1987.7  『運命の勝利者朴烈』復刻版 布施辰治 黒色戦線社

1988    『続・現代史資料アナーキズム』小松隆二編、みすず書房<訊問調書を活字化、

難波大助大逆事件、黒旗事件資料も収録>

1991.12.25 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社<本文は続・「現代史資料アナーキズム」の複製>

付録として大審院判決、減刑等の公判書類原本縮小パンフ、『黒濤』『太い鮮人』『現社会』の復刻、『連帯』誌

<山梨での碑の除幕式報告掲載> 

1976.4.15発行が刷り込まれている。

1996.12.5 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次、影書房

1999.9.15 「金子文子を支えた人々 栗原一男を中心に」佐藤信子『甲府文学』12

2002.7.23 「金子文子と布施辰治」シンポ開催

2003.3   『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』韓国語版刊行 『朴烈・金子文子裁判記録』、

『運命の勝利者朴烈』布施辰治、『朴烈』金一勉、『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次を主として参考にした。   
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# by futei7 | 2011-11-04 14:11

アート・低山 藤野町

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# by futei7 | 2010-09-18 15:49

再びの仁王山

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 サジック公園を抜けて30分ほど道路を歩き登山口に至りました。
すぐに沢沿いの登山道になります。

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 昼は暑いので夕方に登り始め。4時45分にスタート、当初は年配の方と前後しました。


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 薬水が湧く岩場。

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 薬水の岩場がまた現れました。

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 右側に南山とタワーが望めます。
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中央、ビル群の下に長方形の林のように緑が見える地点が景福宮

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尾根筋に出るとソウル城郭の新設工事が進んでいました。

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朝鮮王朝時代は農閑期に農民を動員して築いた城郭です。
西陽を浴びて気温は30℃台半ばを越えていると思います。


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標識と鉄鎖の間に頂上が見える向かいの山は北岳山。

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仁王山の頂上です。

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景福宮が観えます。長方形に樹木が植えられ景福宮の施設を囲んでいます。

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 右方向が南山です。ビル群の手前に樹木が並行している地域がキョンボックン・景福宮です。
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真ん中の銀色のラインが漢江です。夕方5時20分。
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下りの道。
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薬水を汲みやすくしています。

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登山口の注意書き。


『山の本』2010年9月発刊 連載「読書三到」
金袋山
ミズナラの巨木の辺りから道筋ははっきりしなくなった。一帯は落ち葉が深く積り、前夜の強い雨にもかかわらずぬかるみはなかった。樹林が落着かせる雰囲気を醸し出していた。穏やかなエリアである。里から離れているが人々が馴染み歩いてきたような気配を感じる。
 ミズナラは保護されていた。朽ちた倒木が組み合わせられ、巨木の周りを囲んでいた。


画像リンク
2010年7月10日 金袋山 1,325m 奥多摩・日原 ミズナラの巨樹



 日原鍾乳洞の先の登山口からミズナラの巨木あるいは標高一三二五mの金袋山の頂上を目指すという山行を企画したOGさんは、金袋山の位置に関するエピソードを披露してくれた。
久能山東照宮と日光東照宮を直線で結び、どちらからも等距離、つまり真中に位置するという。この位置に金袋山が在るのは偶然なのか、位置するポイントを金袋山と名付けたのであろうか。試しにランニングの距離を測る「距離測定」のウェブサイトで両地点を結び、大まかに金袋山あたりで距離を計測した。確かに真ん中であった。
今はインターネット経由の画像を通して地球規模から住んでいる住居まで鳥瞰できる時代であるが、いにしえにこのような位置関係、後から建立した日光東照宮の位置がどのように定められたのか興味をそそられる。
 
石川啄木

百年まえに東アジアを鳥瞰できた詩人
がいた。石川啄木である。一九一〇年九月九日に「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」と詠む。
近代文学の研究者である瀧本和成は前年からの啄木の心情を解析し、この歌は「侵略批判」として詠んだのではなく、同情心の表現であるとしている。「石川啄木と朝鮮」(『韓流百年の日本語文学』所収、人文書院)
 さらに啄木による幾重の「悲しみ」は「日本の青年が強権に対して確執をもたないことの」悲しみ、不幸であるとし、
国家が怨敵と自覚する機会がないことへの二重の悲しみ、不幸が表出されているという。



江華島

そのかつての朝鮮国の南半分である韓国を金袋山行きからほどなくして訪問した。
滞在中にソウルから二時間程かかる北朝鮮と国境を接している江華島に向かった。午前も遅く出たので島のバスターミナルに着いたときは午後にかかっていた。
東南部の観光地エリアを結びサイクリングロードが作られ、貸自転車店もあるというので利用することにした。
訪問の第一の目的は、一八七五年に日本の軍艦「雲揚号」が最初に朝鮮政府軍の守備隊と交戦をした地点である草芝鎮チョジジンを訪れることであった。
店から出発し間もなく草芝鎮まで一三キロと道路標識に大きく示されていた。スピードが出ないマウンテンバイク仕様の自転車のペダルを力まかせにこぐが海風は吹かずほとんど凪の状態であった。
江華島には歴史のエピソードが多くある。
時間の余裕があれば登るつもりであった標高五百メートル近い摩尼山は古代朝鮮王朝の起源、檀君降臨という神話の場所である。
サイクリングロードを走りながら摩尼山が含まれているかもしれない低い山並みを眺めた。
草芝鎮は石畳と防御壁の砲台が復元されていた。本土と数百mしか離れていない狭い海峡を眺め、日本による一四〇年近く前の侵略の始まりを想起した。
この江華島事件における日本側の対応が解明されてから一〇年もたっていない。二〇〇二年、歴史研究者の鈴木淳が「史料紹介」として『史学雑誌』一二月号に論文を発表した。防衛庁防衛研究所戦史部図書館所蔵の「明八孟春雲揚朝鮮廻航記事」綴り所収の報告書を分析し、戦争行為が三日間にわたっていた事と、これまで主張されていた飲料水の確保という侵入目的の虚偽を明らかにした。


市民宣言

大韓帝国と国号を変えた隣国を強制併合したのは一九一〇年、八月二二日であった。
日本あるいは韓国に住む市民による「韓日共同市民宣言」の起草に関わった。
植民地支配の責任の決着、解決が二一世紀になってもつけられていない。東京で主催した「宣言大会」には一千人近くの参加者があった。二九日にはソウルの成均館大学で同様の大会が開かれ参加した。

 翌日、徳寿宮やロシア、イギリスの大使館がある貞洞の歴史散策の後、サジック公園から標高三三八mの仁王山に向かった。
 公園を抜け金網のフェンスで囲われた登山口に着いたときは夕方の五時少し前であった。西日により思ったほど気温は下がらず、暑さは体力を消耗させ花崗岩に面した急登では幾度となく呼吸を整えた。
 頂上直下で振向くと漢江が陽光にきらめき銀色の帯となりソウルの街を分けていた。
大統領府の青瓦台など政府施設が山ろくにあるため警戒中の若い兵士から「月曜日は登山の休日だ」と警告をされた。
百年前に国を奪われた悲しみや怒りをもちこの山の頂きから直下の景福宮や街を望んだ朝鮮の人々がいたであろう。
世紀を越えても被植民地化の影響と国の分断は持続している。兵士の存在は未だこの国が終戦に至らない証である。

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# by futei7 | 2010-08-30 10:14

昌徳宮、成均館の裏山

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# by futei7 | 2010-08-28 11:09

「又観先生 誕辰111周年、国民文化研究所 創立60周年」

「又観先生 誕辰111周年、国民文化研究所 創立60周年」を記念した「東アジア自由共同体の未来」ワークショップへのご招待に感謝します。参加のみなさまと論議が深められることを願います。

 今日、日本という国家がアメリカとの同盟を口実に戦争ができる国家体制を整え、前の首相、安部が逃げだしたとはいえ平和のための「憲法九条」を投げ捨てる改憲策動は収束したわけではありません。その中でこの間、テーマとしてきた「東アジア自由共同体の未来」を継続して論議して行くことは重要だと思います。また、その未来のためにも、この百年の東アジア民衆のアナキズム・無支配主義の系譜を振り返り、検証される必要があると思います。

20世紀前半・東アジアのアナキズム系のネットワークを目指したグループを以下のようにあげられます。ゆるやかでも、また断続があったとはいえ東アジアにおいてアナキストたちのネットワークが成立していたことは日帝を倒し強権による支配がない社会の実現、自由共同体実現を常に目標としていたわけです。黒色青年連盟や朴烈・金子文子への面会者の記録など、これまで知られていなかった資料を少し引用します。
前史としての亜州和親会があります。

日本社会主義同盟信濃川事件糾明集会
不逞社・黒友会
大杉栄の試みアナキストの「連合」
黒友会・不逞社の継承
「真友連盟」  
黒色青年連盟
中国東北地域での、金宗鎮、李乙奎たちの試み
東方無政府主義者連盟、シン・チェホ

『黒濤』紙の刊行
1922年7月に創刊された運動紙『黒濤』は朴烈が編集
 信濃川事件
9月7日に調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」が神田で開かれました。日本で活動していた朝鮮の社会主義者と日本の社会主義者たちが初めて協力して開催した集会です。朴烈は演説会で現地調査を報告し、さらにソウルの思想研究会から招待され「信濃川虐殺真相報告演説会」に出席します。  
黒友会の結成、運動紙『太い鮮人』――不逞社の結成と活動
1923年、不逞社の新山初代は8月20日、根津権現の貸席で大杉、望月桂、岩佐作太郎等、20から30名が集った無政府主義者の連合組織問題の相談会があり、新山は鄭と一緒にその会に行きます。金重漢、洪鎮裕が来ていましたが朴烈、金子文子は不参加でした。

1925年、同志たちは黒友会、不逞社の活動・名称を継承します。
黒色青年連盟の創設
同連盟は1月2日、9日に準備会を開き15日に参加20団体、61名にて総会を開催、結成となりました。
「黒色青年連盟演説会状況に就て」。司会栗原一男、演説第一席 栗原一男。黒友会。椋本運雄、自然児連盟。韓某、黒友会。猛某、黒友会。

黒色青年連盟に参加したグループの中心メンバーは、「大逆罪」の被告とされた金子文子、朴烈への支援に大きく関わり面会や大審院の傍聴を追及。警察関係資料中の「東宮職特警発」(『即位大礼警衛関係』廣畑研二編集、不二出版)に同志たちによる市谷刑務所の二人への面会者記録、記録された活動家はいずれも黒色青年連盟に参加しています。

 26年2月1日から10日に主な活動家として不逞社の同志であった鄭泰成、栗原一男(26年当時は自我人社)、同じく自我人社の井上新吉、サラリーマン同盟の江川菊次郎、黒友会の韓吉(韓漢吉)、同じく金正根、徐相漢の名を確認できます。黒友会、韓吉「…自分は朴烈に大いに同情を有する一人にして毎度面会して彼の心情を慰め居れり帝国主義軍国的侵略主義の国家は常に弱小民族を圧迫すべき其の宣伝材料として彼を犠牲となしたり……」

朝鮮無産青年同盟会、安鐘吉
「彼(朴烈)の行為は朝鮮人の意思を代表して日本国民に告げたるものと考えます。思うに現総督政治を此侭遂行したならば朴烈以上の行為者が出ないとも限りません。朝鮮と云う民族は永遠に滅亡しないものであります……」

 真友連盟事件
真友連盟事件は「不逞社事件」から継続された弾圧です。
「大正時代」の末期、すでに植民地化した台湾、朝鮮に続き,さらなるアジアへの侵略を推進するため天皇国家の体制を強化することは必然でした。

 震災前から政府は「過激法案」制定を画策しアナキストやコミュニストの闘争を封じ込めようと図ってきましたが、より早期に有効な治安法の制定を画策していました。
そして震災後、普選法制定に向けた動きは治安法も伴い活動家、社会変革派の労働者と民衆を分断するものとなり、25年5月の治安維持法制定へと至り、真友連盟事件のように朝鮮における適用がエスカレートされ過酷な弾圧を伴うものとなりました。
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# by futei7 | 2010-08-10 20:17

1922年新潟・中津川事件


『東亜日報』1922年8月1日付

見出し

日本における朝鮮人大虐殺
見よ! この残忍あくどい惨劇を
一日十七時間の苦役を強制しておいて逃亡すると銃殺し川に投棄

毒魔によって惨殺された者百名余

信越電力株式会社は、日本の信濃川という川を利用して八年計画で東洋一の規模の
大発電所を新潟県に建設するため、朝鮮人労働者六百名、日本労働者六百名、合計
千二百名を使って工事を進めている。
ところが最近信濃川の流域に朝鮮人労働者の死体がたびたび流れてくるので、中魚沼郡
十日町警察署で怪しく思い仔細に調査をした結果、天下に驚くべき事実を発見した。
 
記事略
「こうして虐殺された朝鮮人の数はどれほどになるか?
これはまだ確実ではないが、逃走の途中発見され殺害
された者、過度の労働に耐え切れず病にかかり殺害さ
れた者を合わせれば百名をくだらぬもようである。」
後半記事略

 総督府警務局から発売禁止、押収をされる。

佐藤氏論文は
日本国内の新聞社の取材姿勢の後退
『読売』の記事を書いた村田豊明記者
情報源「虐殺現場を目で見たと云う電力会社のある使用人に聞いた」
「国家的見地からみて、朝鮮人に、その人の名を正直に話すことは
できない」報道管制

『東亜日報』8月20日付
見出し
風説の出拠は確実
だが朝鮮人には話せぬ
忌避した読売新聞特派員の態度
「はじめて読売新聞に掲載された虐殺事件は、どこから出たものか
その記事を書くため現場を視察した読売新聞記者村田豊明氏が調査委員
羅景錫氏に語ったところに依ると、虐殺現場を目で見たと云う電力会社
のある使用人に聞いたもので、国家的見地からみて、朝鮮人に、その人
の名を正直に話すことはできないが、内務省当局者には詳細に話して
あるという。
 また関係当局者も、誰であるかわかっているが、その人を調査することに
なれば、会社から免職されるおそれがあるから実行は困難であると調査委員
の調査希望に応じようとしない。かれらの態度は奇怪である。
 (十八日大割野から)


1922年9月6日
新潟県虐待事件と反響
空前の大演説会
朝鮮人と日本人の連合で
鄭海雲、羅景錫、朴烈、鄭泰成、白某(註・白武)、金鐘範、申某、金烔斗、李康夏

1922年9月8日
検束された演士は拘留
錦町警察署に検束された白武氏は十日間の拘置に処せられた。
また当日演士であった中浜哲氏は会場に入ろうとしたが入り口を警備していた警官に
はばまれ、門の外で錦町警察署に検束されたのち、八日警視庁に押送されたと云う。
東京特派員電報

9月9日
革命歌裏に解散
演士白武氏外8名検束
東京で開催された新潟県事件演説会
大盛況中、結局は解散命令
東京から特派員、李協相

7日午後7時から開催
演説会の計画が発表された当時から警察の圧迫がひどく
興行物規則で取締ろうとしたり、あるいは堺利彦、大杉栄らの社会主義者が
参加すれば、開会と同時に解散させるというので、やむをえずすでに弁士に
決定されている堺利彦、大杉栄氏の外おお勢の弁士を除き、委員諸氏が苦心
惨憺のすえ、やっと演説会の開催にこぎつけた。
この日会場には定刻二時間前からひと人が、潮水のように押寄せ六時までには
すでに二千名をこえた。錦町警察署では署長以下警官約六十余名、さらに警視庁
内鮮係が総動員され会場内外をほぼ包囲し、入場者をいちち厳重な身体捜索を行い
刃物はもちろん、靴べらにいたるまで金具類の所持者は完全に入場を禁止するなど
異様な警戒ぶりは見ている人たちを非常に驚かせた。

日本人がほぼ二千名
朝鮮人はほぼ五百余名にもなった。

扉の外には入場できず立っている人がなんと数千名にもおよんだ。
羅景錫、朴烈両氏の実地調査の報告演説がおこなわれ…



1922年9月7日。信濃川虐殺真相調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」が開催される。
この演説会は、官憲の介入で途中で解散させられたが、当時日帝本国で活動していた朝鮮の社会主義者と日本の社会主義者たちが初めて協力して開催した集会である。

朴烈は現地調査を報告、中浜哲は検束される。(信濃川虐殺真相調査会が組織され新潟現地調査に参加 <新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か>)二二年九月七日、信濃川事件(近年の地元研究者は「中津川事件」と呼称)現地報告集会、

信濃川事件は一九二二年七月、読売新聞が最初に報道した。「信濃川に朝鮮人労働者の死体、何体か流れつく」と刺激的な見出しであった。当時「信濃川朝鮮人虐殺事件」と呼ばれた事件の発覚であった。実際に死体が発見されたのは上流の中津川であり穴藤(けっとう)の発電所を建設中の労働者であった。

事件発覚後『東亜日報』は記者を新潟現地に特派し水力発電所建設現場の穴藤地区を中心に朝鮮人労働者への虐待、虐殺の調査と取材をもとに連載記事を掲載した。

中浜哲は『労働運動』第七号一九二二年九月十日発行号に現地報告を掲載している。

「信越の監獄部屋から」自由労働者同盟 濱鐡 [註 濱鐡は中濱鐡の筆名の変形]

 実地調査した『信濃川虐殺事件』の真相を送る。信濃川(千曲川)の支流たる中津川の下流、信州切明から越後大割野に至る信越の国境八里余りの間。これが信越電力会社を経営する大工事なのだ。千曲川に呑まれる下流の大割野に第二発電所あり、それを遡る二里の下穴藤に第一発電所がある。…監獄部屋を作るには絶好の箇所だ。

…日本土木株式会社(即ち大倉組)が、大割野、前倉間。大請負師大林組が前倉、切明間を請負ってゐる。更にその又下に沢山の頭連があって、総数二十余りの飯場小屋をおッ建てゝゐる。その奴隷供給地は、主として不景気でアブレてゐる九州、朝鮮だ。近傍の信越の地方だ。失業者、自由労働者、小作人などの群れが、百人、二百人とまとめて貨物同様に部屋へ連れ込まれて来るんだ。…」

 朝鮮人虐待の全ては大倉組の大頭目によって引き起されたと『東亜日報』の記者は報告している。そして九月七日の前日に演説会の開催記事が掲載される。

《新潟県虐待事件と反響、空前の大演説会、朝鮮人と日本人の連合で七日東京で演説会開催、東京から特派員 李相協》

「…七日午後七時から、神田美土代町の青年会館で大演説会を開くことを決定した。…すでに決定した演士は次のとおりである。

△朝鮮人側 鄭海雲、羅景錫、朴烈、鄭泰成、白某(註・白武)、金鐘範、申某、金烔斗、李康夏

△日本人側 …憲政会代議士・山道襄一、革新倶楽部代議士・中野正剛、堺利彦、大杉栄、中濱鐡、小牧近江、松本淳三 朝鮮側主催でこれほど大規模な演説会が開催された前例はない。それだけに世間の熱い注目をあつめてり、警戒は今からすでに非常に厳重である。」一九二二年九月六日『東亜日報』

補足(2008年4月14日)


一九二二年の朴烈の主な活動

一九二二年一月四日 一一名の連名で『朝鮮日報』紙一月四日号に「同友会宣言」を発表

一九二二年四月 淀橋署に一六日間検束。[英国皇太子来訪のため予防拘束]中浜は皇太子の訪問地を移動。

一九二二年四-五月 金子文子と同棲、

一九二二年七月一〇日『黒濤』創刊

一九二二年八月一〇日 『黒濤』第二号                 

一九二二年八月 信濃川虐殺真相調査会が組織され調査委員として参加、中浜哲も現地調査。

一九二二年八月頃 新潟現地調査に赴く。[新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か]

一九二二年九月 中西伊之助「不逞鮮人」(短編小説)『改造』誌四巻九号に発表

一九二二年九月七日 調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」朴烈は現地調査を報告

一九二二年 ソウルの思想研究会から招待され「信濃川虐殺真相報告演説会」に出席

一九二二年一一月 黒濤会分裂は決定的になる。黒友会の成立。「日本における鮮人労働運動黒友会」申煖波(『労働運動』一〇号、二三年一月一日)

一九二二年一一月七日頃『太い鮮人』第一号発行 枠外に「フテイ鮮人」と記載「破れ障子から」金子文子、朴烈『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

一九二二年一二月一九日 頃『太い鮮人』第二号発行「所謂不逞鮮人とは」朴文子



この事件の研究文献としては
『新潟近代史研究』第三号八二年
「中津川水力発電所における朝鮮人労働者虐待・虐殺事件、東亜日報掲載の資料紹介」張明秀。

『在日朝鮮人史研究』「新潟県中津川朝鮮人虐殺事件」佐藤泰治、八五年がある。

『亜細亜公論』が「事件」に対する感想をハガキでのアンケート回答として掲載している。社会主義者や朝鮮にゆかりのある文化人の回答が掲載されている。



「新潟県中津川朝鮮人虐殺事件」佐藤泰治、八五年より部分メモ

はじめに
朝鮮人有志の現地調査が続く
決定的証拠をつかめぬまま退去せざるを得なかった
限りなくクロに近い灰色事件として迷宮入りとなった
1979年に着手された『津南町史』の調査執筆の一員に加わった
証言可能な古老は十指に余る
当初町の全面的協力もあって掘り起こし作業は順調に進んだ
『新潟日報』で紹介されるや津南町の態度が硬化
1984年秋『津南町史編集資料』一九集に所載さるべき原稿がボツとなる


8月11日以降は各紙の「情報源」が一本化、報道管制下となった
内容は「鮮人虐殺は誤報」を趣旨とした

8月15日以降の調査
穴藤地区
 朝鮮人人夫 867名 多数の虐待の確認 虐殺の事実は掘り起こせなかった

1923年6月段階の新潟県下2,700人の朝鮮人はその大半が第一の各工区に分配
されていたと考えざるを得ない、朝鮮人の占める比率は三分の一前後

76頁
証言 涌井K氏 明治40年4月28日生
 「河水に投じた」に限定しなければ合計百人位の朝鮮人が虐殺されたのは
多分事実であろうとの所感を抱かれ、前倉、大赤沢地区でも
「一番危険な隋道工事にあてられていた白い衣をまとった朝鮮人が毎日村はずれの火葬場で焼か
れていた」と古老が語ってくれた。


証言7
涌井H氏 明治40年9月9日生
朝鮮人の逃げたのを柱に結わいつけて頭の毛を、
ちょんまげを俺見てたら鉈で切った。
棒のでけぇのでアンチャンてのが叩く
たびたびあったナ

証言8
N・M氏 明治40年8月22日生
二〇貫のセメント樽の板をはいで持っていた中島の
棒頭が監督をしていた。
この板でケツをひっぱたいた。
朝鮮人の方がいじめられた。
言葉は悪いがほとんど奴隷扱いで仕事に耐えられないで逃げていくと
番人がいて…二三人づつ棒を持っていた。
つかまれが死ぬくらいたたかれた。しも手の割野の方へ逃げる。
上は飯場だらけだから。中島の仕事場は沈砂地。怪我で死んだ者などは
そこらへ埋めたり捨てたんでしょう。
リンチはとても見てられない。略
日本人の場合でも。朝鮮人ほどにしなかったが。

石沢松三郎
あちこちの樹木には縊死体がぶらさがっているのを何度も見た。
尤もいちいち警察に届けることもなかった。
関わりあいになるのもいやだし、無政府状態みたいだった。
村の人も飯場をこわがりなかなか近づかなかった。

N・M氏
「虐殺は?」
そういうことはあるね。あったと思うね。
あったと思うし… この高野山テのがあるでしょう。
あこらへんでは(朝鮮人が)埋められたんではないかね。
発電所のあこらの鎮守の下の堰堤のつきあげた…
ああいうところでは人柱となって入ったんじゃないか。おそらく
そう思うね。水の中へぶち込んでコンクリートを流しこんだり
…親方であるか、誰だかのいいつけでやれやれなんていって
やったんでしょう。かなり死んでいると思う。

N・G氏 明治39年6月5日生
10年前(1973年・1983年時点)に発電所を少し大きくしましたね。
その当時も少し、三年ばかり手伝いましたが、この上の、
あこの、あの一番上の原から そこを掘るなんて…
人骨がこんなダンボールに一つくらい出ました。
…誰か死んだんだとか何とか話がちっともなかった(所である)のが、
そういう今掘り返してみても、そういうのが出るんだから、当時は
残虐なことをやったこともたしかな事実なんじゃないでしょうかね。

そこは落盤事故のあった場所でなく、掘った穴から出たのだから、当時
新聞などに載ったン(虐殺事件)が本当だつたかもしれない。噂はありまし
たよ。

小林幸治郎氏 大正10年12月16日生
熊谷組で一緒に働いていた友人が鉄管路を
支える一番下のコンクリートを掘っていたら、
突然ポコッと穴があいて白骨が出てきた。
それは一体きりだったが、あまり面倒になるのも
困りものなので、上の方には話さず監督くらいに
話をしてその辺りに始末してしまった。
この他にも噂のあった下の堰堤など、若い衆が
嫌がるので十人くらいの者に酒を日本許りふるまった
が、結局堰堤は下まで全部壊さないでやめてしまった。

涌井Y氏 明治33年8月26日生 嫁のK氏の助力
「虐殺の真偽のほどは?」
K氏
実際に逃げた鮮人がつかまって、山の中で。
ぐるぐる巻きにして、冬の時に、冷たい川の
中につけたのを見たんですって、
父が…まァいろいろ人の眼につかないようにしたんでしょうが
…随分ひどいことをしたものですね。
K氏
父の話ですが、森宮野原で、朝鮮人があそこから(信濃川へ)
とび込んだ。あそこまで追いかけられて、逃げられない…と。
あそこから水の中へ飛び込んだというです。
「その方は死んじゃたんでしょうか」
Y氏 おう。もちろん。

81頁
こうして中津川事件はその真相迷宮入りとなって今日まで至った。

李相協らの調査を中心に
1920年死亡3人

94頁
工夫総数 1922年7月1,200人 867人 東亜日報
     1922年8月3,000人 800人余 「新毎」大正11年8月20日

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# by futei7 | 2010-08-01 10:33

金東椿さん講義

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# by futei7 | 2010-04-19 13:59

朝鮮真友連盟事件

朝鮮真友連盟事件 

 朝鮮黒色運動の視点も含め一九二〇年代、日本列島におけるアナキズム運動史を捉え直す

 関東大震災を機に国家権力は戒厳令下、究極の治安弾圧を行使し、軍隊、警察、民間の暴力によって朝鮮人、中国人、社会主義者を虐殺した。その経験をもとにに一九二五年、従来の治安警察法を超える治安法としての治安維持法を制定し、合法的、恒久的、法律の名のもとに社会体制を変革しようとする人々への弾圧を開始した。

 ことに国家権力が朝鮮の支配、植民地化を強めるために朝鮮と日本の民衆の連帯した活動は国家権力にとっては最も恐れるものであり、そのため小さなグループであっても壊滅させることが目的となった。

 国家権力にとって金子文子、朴烈たちを中心とした不逞社グループの存在は最も忌避されるものであり、そのためメンバーはフレームアップ弾圧、獄死攻撃にさらされた。従来の「大逆罪」のみの側面、「朴烈事件」という名称に収斂される弾圧に関心が向けられるが一九二三年から三〇年にかけて当事者たちへの弾圧は続き、朴烈は日本帝国主義が敗北した後もすぐには解放されなかった。

 官憲の資料に日帝本国内の朝鮮人アナキストの「動向」が記述されている。「不逞社検挙後の残党張祥重、李弘根、元心昌等一味の者は徐々に挽回運動に努め……大正十五年十月陸洪均等は黒友会を黒色青年連盟と改称し(一)自由連合主義を高唱す(二)被征服者の解放は其自身の力でなにければならぬ等のスローガンを発表し内地人無政府主義団体黒色青年連盟に加入せるが彼等は飽迄朴烈の遺志を継承する為とて[不逞社]と改称し同年十二月機関紙『黒友』を発行せるも発禁処分となりたるを以て更に黒風会と改称し李弘根、元勳、朴茫等は総同盟系なりし東興労働同盟を本会の細胞団体たらしむべく画し更に昭和二年二月本会の別働隊たる朝鮮自由労働者組合を呉宇栄等によりて組織せしめて運動線の拡大に務むる処あり」

 組織関係に関して官憲の分析が正確なものか疑問は残る。たとえば「黒友会を黒色青年連盟と改称」というのは組織を誤認した記述ではないか。黒色青年連盟というのは個別グループの自由連合の結果、結成された連盟であるので「改称」というのはおかしい記述である。すぐ「黒色青年連盟に加入」という記述もあり矛盾するのである。しかし黒友会、不逞社、黒風会という一九二三年の弾圧時のグループ名が継承され使われていたのだろう。金子文子、朴烈の裁判傍聴に黒友会という名が新聞報道に出されている。

 朝鮮に戻ったメンバーを挙げている。「然るに先是不逞社事件の関係者徐東星は予審免訴となりて大邱に帰来後大正十四年九月同志を糾合して朴烈の遺志を継承実現すべく真友連盟を組織し別項重要事件記載の如き不逞行動を画し未然に検挙せられたり」。ここに不逞社と真友連盟を結びつけた真友連盟を当初から機会があれば潰すというこんたんが認められる。

 三つの大きな「事件」があった。

金子文子・朴烈の「大逆事件」

黒色青年連盟の「黒旗事件」(銀座事件)

朝鮮テグの読書会グループ「真友連盟事件」

金子文子・朴烈「大逆事件」

 関東大震災後の九月三日、代々木の不逞社から保護検束という名目で文子は朴烈と共に警察に連行される。続けて他の同志たちも検挙される。治安警察法違反から、使用目的が具体化していなかった爆弾入手の試みが拡大解釈され文子は刑法七三条で朴烈と共に起訴される。「天皇は病人ですから…それで坊ちゃんを狙ったのです」と文子は予審で当時の皇太子を攻撃目標と考えていたと供述しているが具体性は無かった。一九二六年三月二五日、朴烈と共に大審院により死刑判決。四月五日恩赦による減刑で無期懲役。文子は栃木刑務所にて服役するが、筆記や読書制限という弾圧を受ける。一九二六年七月二三日、獄死する。刑務所の発表は縊死。死因に疑問をもった布施弁護士や同志は母親と共に刑務所の墓地に向かい発掘するが、死に至る経緯は不明。同志による文子の遺骨保管に関連し警視庁は母親と同志たちを半日検束する。検束された栗原一夫と椋本運雄はそのまま朝鮮に送還され真友連盟事件の治安維持法でフレームアップ弾圧を受ける。

 真友連盟事件

 朴烈、金子文子の大逆事件においては治安警察法ですら他の同志を公判に持ち込めず、また一九二六年一月の黒色青年連盟による黒旗事件<銀座事件>において警備の失態と治安維持法を行使できないという屈辱を喫した官憲が治安維持力の回復を誇示するため、アナキストたちによる「大逆犯」金子文子の追悼行動を契機として黒色青年連盟に参加していた椋本、栗原、金正根を真友連盟の周辺にいた仲間の偽証によりこじつけ治安維持法違反としたものである。日帝本国と朝鮮のアナキストの連帯、共同した闘争をことごとく潰すという官憲の大弾圧である。一旦は予審で免訴の決定が出ているように証拠は薄弱でフレームアップを物語っている。検察側の主張はアナキズム思想、運動そのものが治安維持法違反になるとこじつけている。真友連盟自体はアナキズムの読書会として出発したグループである。

 黒旗事件<銀座事件>

 黒色青年連盟の演説会を潰す意図のもと官憲は弁士中止を連発、怒りの参加者は芝から至近の銀座に向け、示威行動を展開し街頭に面した店舗のショーウィンドゥを破損させた。真友連盟事件では黒色青年連盟の組織自体が治安維持法されている。

 黒旗事件<銀座事件>『黒色青年』掲載記事より

「一九二六年一月、黒色青年連盟結成、銀座デモンストレーションわが黒色青年連盟は一月三一日午後六時半より芝協調会館で第一回の演説会を開催した。東京地方に散在する無政府主義団体の最初の会合であった。会する者七百有余。二流の黒旗の下には六つのスローガンが挙げられていた。四〇数名の弁士はこのスローガンによって熱弁を振ったその殆ど大部分はお極りの弁士 「中止」。自然児の深沼君は、紙製のバクダンを壇上にたたきつけて検束、同横山君は私服警官と論争して検束斯くして横暴なる官権の圧迫の下に、遂に午後九時散会するに 余儀なかった。然しながら一つの行動は数万言の議論にも優る。会衆は街頭へ出た。黒色青年連盟と染めなされた黒旗は高く頭上に翻って銀座へ黒旗は疾風の如くに銀座街頭に駆走する。礫は飛ぶ。旗先は硝子窓にぶち当る。この行動を阻止しようとした尾張町交番の岸巡査は全治二週間を要する殴打傷を頭部に受け遂に窓硝子の破壊されたもの二〇有余軒、築地署は直ちに非常線を張って三二名を検束し愛宕署に六名、翌早朝各団体は寝込みを襲われて家宅捜索を受け、所轄署に取調べを受けた。かくして我等はかかる微細の事件なるに不拘、遂に同志二二名を市ヶ谷刑務所に送らねばならなかった。越えて翌月一三日、山崎真道、松浦良一、匹田治作、熊谷順二、北浦馨、荒木秀夫、秋山龍四郎の七君を残して検事令状(拘留の必要を認めず)との理由によって出獄した。 折柄開会中の帝国議会に一大波乱を起こしたことはあまりに明白だ。ここに省略する。」

 内閣の緊急会議と議会での質疑が新聞報道されている。抜粋する。

『東京朝日新聞』夕刊1926.2.3

 臨時閣議を開き政府の対策成る昨夜内務省の協議に引続き答弁方針を決定す

「無政府主義取締近く声明せん、本日閣議で決定、黙視できぬ銀座街事件

銀座の暴行事件は果して何人の責任ぞ、無警察に等しき帝都の取締を、政本相提携して内相に迫る、衆議院本会議、銀座街頭の暴行と革命歌高唱

「一体帝国の警察は何をしているのか常にかくの如き事件が事前に防がれず事後になって漸く騒ぐが如きは何事であるか」

「この危険なる思想の表現として帝都の中央部に暴行事件が起ったことは一つの革命とも見られるではないか」

「この事実に対して警視庁の執りたる取締は不完全ではなかったか」

若槻首相

 「協調会館の演説会では著しき事故もなく解散をしたがその一部の者のうち約三十名は銀座街に出たので電話で警戒を通報した山崎某が博品館のガラスを破壊したのが動機となり各所のガラスを破壊するに至ったがその時は遂に検束することを得なかった」

 一九二六年三月「不逞社」の朴烈と金子文子は大逆罪で死刑判決<「恩赦」で無期懲役に減刑>を日帝権力、大審院から下された。他の「同人」は金重漢が爆取罰則で三ヵ年の懲役。一たんは起訴された治安警察法が「免訴」になり検束から一年前後の拘置で「釈放」になった。しかし新山初代は獄中にて危篤、釈放直後病院で死亡している。洪鎭祐は朝鮮に戻って活動を続け「黒旗連盟」を結成したが治安維持法で起訴され獄中で病状悪化し、京城大学病院で死亡。栗原一男は金子文子の遺骨を警察の監視化で確保した報復により、デッチ上げ治安維持法で三ヵ年を朝鮮の監獄に囚われる。「不逞社」のメンバーではなかったが金子文子の遺骨を同志として確保した金正根<金墨>は朝鮮の監獄で病状悪化、保釈直後に死亡している。同じく椋本運雄も三ヵ年の朝鮮での監獄生活。金子文子の遺骨に関わっただけで、日帝官権より暴圧を受けたのは死んでも大逆罪はつきまとうのである。一九二三年には治警法ですらデッチ上げを果たせなかったのが一九二五年の治安維持法制定後には、デッチ上げられ監獄に送られる獄中病死させられるのである。

 大逆罪の事後暴圧には栗原、椋本と連絡をとっていた朝鮮の真友連盟のメンバーも巻き込まれたのである。

 真友連盟「治安維持法」フレーム・アップ事件

舞台は栃木、東京、朝鮮、大邱、直接的動きは二つに絞られる。

 一九二六年一月、黒色青年連盟結成、銀座デモンストレーションでの破壊行為。一九二六年七月、金子文子死す。「遺骨を同志の手に」。内務省、警察権力は銀座事件、金子文子遺骨「奪還」事件、二つの行動を結びつけた。

 一九二三年九月三日、関東大震災後の戒厳令下、文子は朴烈と共に陸軍軍人により保護検束され、公然と活動していた不逞社が治安警察法違反で秘密結社とされ、起訴≪他の同志たちも順次、治安警察法で検挙、起訴された。≫

まさに有事の際の「保護」から「大逆罪」まで一直線につなげたのである。 二人は不逞社の同志と共に、天皇、皇太子、日本帝国主義国家を打倒目標とし、その手段として爆弾を入手しようとし、ダメージを与えるための行動を企図したことはある。しかし、それは漠然としたものであり、具体的行動につなげた部分は権力がフレーム・アップしたものである。

 椋本運雄は金子文子の遺骨を自室で預かり、それ故官憲からの報復を受け、真友連盟に関わる治安維持法違反によりフレームアップ弾圧され懲役三年の実刑となる。江西一三は「関東大震災後の日比谷公園のバラックに自然児連盟員一〇人余り占拠」と回想、椋本の名も挙げている。(『江西一三自伝』一九七六年五月発行、江西一三自伝刊行会刊)。椋本本人は獄中からの短い手紙以外に文章を残していない。『黒色青年』紙の消息記事で初めて名が出る。椋本運雄が参加していた「自然児連盟は都合上解体、残務整理、府下上落合六二五 前田淳一君方」『黒色青年』一九二六年四月五日発行。次いで「旧自然児連盟の前田淳一、椋本運雄、深沼弘胤の三君、それに文芸批評社の麻生義君が一緒になって黒化社をつくった。機関紙『黒化』を出す。同社は市外落合町上落合六二五。来月初旬より続々とパンフを刊行する由」『黒色青年』一九二六年五月五日発行。

 深沼火魯胤(弘胤)の獄中記「避難漫言」によると(『激風』創刊号、一九二六年六月発行掲載)、椋本、山田緑郎、臼井源と四人で一九二五年初夏「公務執行妨害、傷害」の弾圧を受け、椋本は市ヶ谷刑務所、豊多摩刑務所と合わせて三ヶ月も囚われ、一九二五年一〇月に出所とある。

 一九二六年七月二三日、栃木刑務所における金子文子の死と同志たちの追悼に対し警視庁は弾圧をしかける。七月三一日、布施辰治ら金子文子の遺体発掘、正午栃木火葬場で荼毘に付し、夜九時に遺骨を東京の布施宅に運び、通夜を催す。制私服警官五,六〇名の監視の中、朝鮮人、日本人アナキスト八〇名余りが集まる。池袋「自我人社」に集まった同志の中から中西伊之助、栗原一男、古川時雄らが八月一日午前五時頃、遺骨を警察の監視の中、持ち出し、警察は自我人社を包囲、中西らを検束する。捜査の結果、遺骨は下落合の旧自然児連盟の椋本運雄方にあることが判明、押収、保管をする。椋本も文子の母親や栗原一男と共に警視庁に検束される。母親は半日後に検束を解除されるが椋本、栗原等はそのまま拘束。八月一四日、朴烈の兄朴庭植が遺骨を受け取りに東京に来るが池袋警察暑は遺骨を直接渡さず、朝鮮尚州警察経由で朴庭植に渡るよう画策。

 椋本たちは朝鮮大邱の「陰謀事件」にこじつけられ八月一五日大邱に送られてしまう。「重大犯人受取りのため警視庁へ出張した慶北道警察部の成富高等課長吉川判事、谷重高等主任以下五名は犯人主魁栗原一男以下四名を護送して一五日帰任した。犯人は目下大邱署で厳重取調べ中事件の内容は厳秘で取調べ進捗につれ拡大の見込みである」と一般紙で報道される。

 一方、真友連盟は朝鮮大邱におけるアナキストの大衆団体であるが「一九二六年七月中旬頃から朝鮮に於ける同志、真友連盟の徐黒波、鄭黒濤、馬鳴、禹雲海、方漢相、河鐘珍、徐東星、金東植、申宰模、外数名の諸君が何等の理由も分からずに続々と官憲の手に検挙された。お互いの消息通信や激励の手紙を出したなど微弱な口実が治安維持法違反に結びつけられようとしていた。八月上旬、折から金子文子君屍体引取中を不法にも警視庁に拘禁していた自我人社、栗原一男君、黒化社の椋本運雄君、黒友社の金墨(金正根)君を、大邱署からの依頼として朝鮮に押送してしまう。八,九月と検挙された同志諸君は幾度かの拘留のむしかえしをやられ、接見禁止、書籍差入禁止となる」(『黒色青年』『自由連合新聞』紙の記事より)

 一〇月、大邱地方予審に廻されるが、翌一九二七年二月中旬、予審の長期化に対し一斉にハンガーストライキを一週間続ける。これが効を奏して、書籍の差入が許されるようになる(『黒色青年』第八号四頁一九二七年四月五日)。なお『黒色青年』一〇号一九二七年七月五日にも公判報告記事が掲載。

 一九二七年三月八日、予審が終結し栗原、椋本、金墨(金正根)の三人は免訴になるが検事はこれを不当として覆審法院に抗告、その結果免訴は覆り公判に付され、一九二七年五月二六日、六月九日、一四日と三回の公判が開かれる。栗原からの手紙によると「椋本と金正根と僕は、検事の求刑は各一〇年です。真友連盟の主なる方漢相、申宰模は各五年です。他は真友連盟を創立する際協議した者四,五名が各四年、後から真友連盟に加盟した者が各三年の求刑がありました」

 一方、東京では、一九二七年六月二三日、黒色青年連盟が朝鮮総督府東京出張所並びに司法省に殺到し、抗議書を突きつけ同事件の関係者の即時釈放を要求。しかし、六月二五日判決公判で懲役三年、即日下獄となり後に京城西大門刑務所へ移監させられる。

 一九二七年六月二五日<大邱より>として椋本運雄の手紙が掲載。「……横暴、無茶、彼等番犬の処置に反抗して、細食、放歌、毒舌、騒擾したのが一〇年だ、と言う検事の論拠が如何に乱暴極まるものであるか位の事は、多言を要せずして明な事である。…」(『黒色青年』一二号一九二七年九月五日)。七月四日再び黒連は抗議書を突きつける。しかし同志たちは長期投獄され、一九二八年八月六日、大邱監獄の金正根は肺患が重くなり獄外に出されたが死亡。

 ようやく満期の一九二九年六月一九日「椋本、栗原出獄」「現在東京市外代々木富ヶ谷の<A思想協>に於て静養中である。両君とも極めて元気だ。なお同事件関係の同志五名は大邱刑務所に被監禁中」。

 朝鮮の同志たちは、一九三〇年一月二四日、二五日「馬鳴、禹雲海の両君は元気で出獄した。目下大邱の自宅で静養中、馬君は約一週間前、犯人逮捕を妨害したとかで再び<公務執行妨害>とういうイイ加減な罪名で検挙されている由」と出所した。

 布施辰治は「<被告人栗原一男、金正根、及び椋本運雄の真友連盟員に対し無政府主義に基づく新社会の実現の為暴力による直接行動を教唆煽動し、之をして暗殺破壊の協議をなさしめたり>と云う起訴をしたのが事件の内容である」「被告人椋本運雄が大正一五年二月中前者と同様の目的を有する黒化社なる結社及び前示黒色青年連盟を組織したることの意見と、被告人栗原一男が大正一五年一月三一日夜に於ける東京市京橋区銀座通に於ける黒色青年連盟員の暴行障害等を為したる事件に付真友連盟に語りたること、及び被告人金正根が、<真友連盟の設立は大正一四年九月二九日>真友連盟員に対し無政府主義実現の為には直接行動によらざる可化らずと告げ、又其趣旨の書面を申宰模に送り、被告人椋本運雄も同趣旨の書面を方漢相に送りたりとの事実と、前述被告人栗原一男、金正根の談話及び金正根が申宰模に送りたる書面……被告人椋本運雄の方漢相に送付したる書面、という起訴をしたのが事件の内容である」と報告。第五次『労働運動』



 裁判所の一部は国家権力に抗することができず、免訴に対する検事抗告へ抗告裁判所は以下のように断定し、前の免訴を取消し公判に附している。この決定にはグループとグループを単純に結びつけることでしか「証明」できない治安維持法フレームアップの本質が示されている。

「被告人栗原一男は東京市内に於て、同志松永鹿一、小泉哲郎、古川時雄、井上新吉等と共に無政府主義的運動を目的とする結社《自我人社》を、被告人椋本運雄は同じく東京市内に於て深沼弘胤、麻生義、前田淳一等と共に同一目的を有する《黒化社》なる結社を組織し、又被告人金正根は朴烈こと朴準植が組織したる無政府主義的結社なる《黒友会》に加盟し、朴烈下獄の後は其の首領として現に同会の牛耳を執りたるが、同被告人等は相謀り、汎く全国に於ける無政府主義的思想の懐抱者を結合統一して其の目的とする理想社会の実現運動を促進せしめんことを企画し、大正一五年一月中、右被告人等の組織せる自我人社、黒友会、及び黒化社を中心として、黒旋風社、解放戦線社、自由労働運動社、関東労働組合連合会、其他各地の無政府主義傾向に在る団体を糾合して黒色青年連盟なる一大結社を統合し、其の本部を東京市内に置き爾来被告人等は主動の位置に在りて不穏文書の配布、通信集会協議、其他の方法に依り同志間に於ける連絡を密接ならしむると共に其の目的達成の為には騒擾暴行其の他生命身体又ま財産に危害を加ふべき犯罪を暗示せる所謂破壊的直接行動に依るの外なき旨を以て内地並に朝鮮に於ける同志を激励煽動し居りたるものなり」

官憲資料にフレームアップされた真友連盟事件

一 大正十四年九月大邱に於ける主義者等相集り親睦修養を標榜して真友連盟を組織したるが其動機を見るに朴烈事件に連座し予審免訴となれる徐東星が朴烈の遺志を継ぎ志操強固にして犠牲的精神に富む同志八名を糾合し組織したるものなるが同年十一月連盟員方漢相が東京に潜行し約三箇月滞在して内地人無政府主義者と往来したることあり其の後方漢相、申宰模の両名は在京の同志と頻繁に交通せることありたるのみならず両名は嘗て朴烈の入獄に対し義捐金を送付したる形跡あり連盟員は警察の視線を避くる為創立以来嘗て公然集合したることなく秘密裡に会合し同志間の重要なる連絡は文書を持ちいず口頭を以てし極力秘密の漏洩に苦心せる状況あるを以て厳重注意の中の処愈々破壊暗殺に対する具体的方法を謀議せること所轄大邱警察署に於て探知せるを以て大正十五年七月中旬連盟員十名で他の関係にて一応拘留処分に附し取調をなすと共に関係者の家宅捜索を為したる処

 一、金正根より方漢相に郵送せる反逆児連盟の宣言

 二、金正根より申宰模宛の通信文

 三、在上海高白性より方漢相宛の通信文

 四、椋本運雄より方漢相宛の通信文を発見したる外栗原一男は本件と密接の関係あること判明せるを以て金正根、栗原及椋本の三名を東京に於て逮捕連行し取調の結果何れも右の如き犯罪事実明瞭となりたるを以て有罪意見にて八月二十八日検事局に送致せり

二、犯罪事実

 (一) 栗原の来朝鮮と破壊暗殺の教唆関係者の供述を総合するに本年四月栗原一男が朴烈死刑の場合屍体引取りに要する委任状及金子文子の入籍に関する用務と称し朴烈の兄朴廷植に面会すべく大邱に来れる際真友連盟員申宰模、徐学伊、馬明、禹海龍、鄭命俊の五名と会見し東京に於ける黒色青年連盟の活動状況殊に同盟員が本年一月二十一日銀座通りに於て商店を破壊せる直接行動の状況を説明し内地朝鮮を通し現在の強権主義の治下に在りては自由の擁護主義促進の為めに破壊暗殺等は当然吾人の負担せざるべからさる使命なる旨を縷述し暴行の教唆煽動を為すと共に極力黒色青年連盟に加盟方を勧誘し加盟方の同意を得たり

 (二) 破壊団の組織

 十二日夜真友連盟徐東星、…の十名は栗原の留守中、栗原の宿泊せる大邱府新町李今伊(申宰模の妻)方に同十三日申宰模宅に集合協議し無政府主義運動実現の第一歩として東京に於ける黒色青年連盟の暴挙に倣い先ず富豪より資金を調達し二箇年以内に大邱府内に於ける道庁警察署郵便局地方及履審両方院を始め主なる官署及商業中心地たる元町一丁目の店舗を破壊し且つ知事、警察部長其の他官衙の首脳者の暗殺を敢行すべく新に破壊団なるものを組織し宣言綱領を起草し各自之に署名拇印し直接行動の具体的方法は改めて決定すべく申合せ栗原が大邱を出発し京城に赴く際申宰模は同志を代表して停車場に見送り破壊団の組織を内報したる事実あり栗原は前記の如く凶暴行為を煽動教唆したるに止まらず不穏計画の内容にも関与せるにあらずやと思料せらるるも目下の処確証を得ず右の外破壊団員は凶行に使用する目的を以て爆弾を在上海民衆社高白性の手を経て入手の計画ありたり尚宣言書綱領の所在に付ては假令し死すとも語らずと称し陳述を肯せざるを以て入手するを得ず

 (三) 叛逆児連盟との関係

 金正根は叛逆児連盟より黒友会に配布ありたりと云う叛逆児連盟宣言書九枚を本年五月中申宰模宛送付し来りたる事あり……

 (四) 金正根との関係

 金正根は朴烈の遺志を継ぎ独り東京に止まり黒友会の復興に力を注ぎ居りたるものなるが客年十月頃帰朝鮮して真友連盟員と会合し共に将来の運動方法に関し協議したるが同年末帰京するや真友連盟と内地人主義者の間にありて専ら連絡の衝に当り本年一月中申宰模宛過激なる通信文を郵送し来りたるのみならず前項の如き叛逆児連盟宣言書を送付し来りたる事実あるを以て本件と相当深き関係ありと認めらるるも破壊団の関係に至りては未だ判明せず尚別紙第二号の通信文は申宰模より馬明に回覧の為手交しありたるを馬明宅にて発見したるものなり

 (五)椋本運雄との関係

 椋本は……直接行動を促進する手段として同連盟員に?々教唆煽動の通信を為したる事実あり

 (六) 高白性との関係

 ……在上海高白性こと高三賢より方漢相方に宛てたる押収通信文は無政府主義団体の増設方を煽動し且つ目下上海に於て計画中の遠東無政府主義者総連盟成立の上は之に加盟方を慫慂し来りたるものなるが上海方面に於ける有力団体との関係明ならず



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# by futei7 | 2001-07-23 09:03

真友連盟事件・関連テキスト

真友連盟事件・関連テキスト

★『黒色青年』一〇号、一九二七年七月五日発行掲載。 

同志は「直接的原因なる朝鮮真友連盟の爆破事件なるものの真相も、一モルヒネ患者の病的缺陥を奇禍とし、官憲がモルヒネ注射を交換条件として捏造的自白を強いたるものと伝えられている」と結論。

★金子文子、一九二六年七月二三日栃木刑務所にて死す。享年二三

大逆罪で裁かれた二人目の女性。

一九二六年七月三一日布施辰治ら遺体発掘、正午栃木火葬場で荼毘に付す。夜九時に遺骨を東京の布施宅に運び、通夜。制、私服五,六〇名の警官が詰めかける。朝鮮人、日本人アナキスト八〇名余りが集まる。池袋「自我人社」に集まった同志の中から中西伊之助、栗原一男、古川時雄らが

八月一日午前五時頃、遺骨を警察の監視の中、持ち出す

警察は自我人社を包囲、中西らを検束。捜査の結果、遺骨は下落合の旧自然児連盟の椋本運雄方にあることが判明、押収、保管

警視庁は朴の兄が着いたら、朝鮮に送ることを許可することにした。

一九二六年八月一四日朴烈の兄朴庭植、遺骨を受け取りに朝鮮から東京に来る

★『黒色青年』第八号四頁

「朝鮮官憲の暴検挙」

 昨年七月中旬頃から朝鮮に於ける同志、真友連盟の徐黒波、鄭黒濤、馬鳴、禹雲海、方漢相、河鐘珍、徐東星、金東植、申宰模、外数名の諸君が何等の理由も分からずに続々と官憲の手に検挙された。

 越えて八月上旬、折から金子文子君屍体引取中を不法にも警視庁に拘禁していた。自我人社、栗原一男君、黒化社の椋本運雄君、黒友社の金墨君を、大邱署からの依頼と承して朝鮮に押送して了った。

 内地の警察もさることながら、朝鮮官憲の暴虐振りは昔にきこえたものである。

検挙した同志諸君は幾度かの拘留むしかえしをやられ、やっと十月初旬、大邱地方院予審に廻された。

 其間、全ゆる残忍極まる拷問を以て官憲輩が同志諸君に当たった報を、我々は受け取っている。また、刑務所に於ても接見を禁じ、書籍の差入も許さず、そして予審を極度に永引かせる方針を取ったらしい。其故に本年二月中旬頃同志諸君は一斉にハンガーストライキを宣し、一週間余りもそれを続けた。

 これが効を奏して、書籍の差入が許されるようになり且つ、三月八日に、愈々予審終結、不日公判に付すると発表した。

 而史して、予審の結果、栗原、椋本、金墨の三君は免訴になったが、係検事は之を不当として覆審法院に抗告した。

 此の事件は治安維持法違反として、告発されているのであるが、側聞するところに依れば、本件はモヒ中毒の一浮浪青年の誣告に依って成り立った架空事件としか思われない。

★『黒色青年』第一号五頁 一九二六年四月五日

「消息」

朴、金子両君の判決

三月二十五日両君の判決は共に、死刑を言い渡された。

朴君は「裁判は愚劣な劇だ」と叫び、金子君は、「萬歳」を叫んだ。

 朴烈君金子ふみ子君は震災当時九月三日早朝淀橋警察署に保護の名目によって拘留されて以来既に四年、未だに市ヶ谷の獄以外一歩をも地上を踏むことなく、ただ〇〇と〇〇の命のままに、今目前に迫り来っているギロチンを想い静かに、然し底知れぬ沈着さを以て、その日を待っている。生に対する些かの執着をも持たない。いま直ちに君の前に死の手が延びて行くなら、君は、黙ってその手を嘲笑うであろう。そして従容何一言〇〇の命に従うことなく、自らの咽喉をしめるであろう。

 君は常に言っている。

『僕は確かに、僕の仕事を急いだ。その計画の期の。熟するに先だって、自らその期を掠えるために焦りすぎた。それから、僕は所謂同志に対する選択を誤った。誤ったと知ると同時に断然手を切らねばならぬことを知りながらも従前からの関係と、それ程迄に同志の真意を疑わなかった。………』

 今は僕に事件の内容に立ち入って公開するの自由を持たないが、こう言う朴烈君の言葉の中には、如何に自らを血を以て活ききろうとするため腐心したか。そして常に充実したハチ切れそうな熱と努力とを以て活きるだけを活きて来たか。充分に諒察することが出来る。更に君は言う。

『この身体は〇〇のギロチンの露と消え失せるとも、俺の蒔いた種は、あとに残り、かたい地殻を破って芽を出し花を持ち、そして終わりには実を結ばないではやまないであろう。』と。

 今、目前に迫る死を凝視しつつも堅い信念と来たるべき必然とを想って、君は静かに微笑している。

 金子ふみ子君は朴君と同棲未だに二カ年に満たないが一女性として現社会に叛逆して起ってから以来数年、転変極みない生を亨て、苦慘に続く暴圧の下に呻きつつも弱められた女性として起ち、更に一個の人間として、我等の戦線に起って来た。

 今その苦慘二十五年の生涯は如何に〇〇の××××××〇〇〇〇か、知る由もない。

然し去日中大審院法廷に立って、顔色変えることのなかった彼女は、今八百枚にあまる自叙伝を執筆し終わっている諸君の前に何時かは現れることがあるだろう。

★『自由連合新聞』三七号一九二九年七月一日

 真友連盟事件の同志も出獄

去る大正十五年八月栃木刑務所に於て縊死した金子文子君死体引取当時の警察当局出し抜き事件で検束されたまま、朝鮮大邱真友連盟の治安維持法違反事件の被告として大邱刑務所に収容されていた黒色青年連盟椋本運雄、栗原一男の両君は、当時強烈に行なわれた「無罪証明」「即時釈放要求」の運動の甲斐も無く、爾来三星霜の長期欠 されていたが、此の程刑期満ち去る六月十九日無事に出獄、直に帰京し、現在市外代々木富ヶ谷のA思想協に於て静養中である。両君とも極めて元気だ。猶お同事件関係の同志五名は今尚お大邱刑務所に被監禁中である。

★「叛逆者伝一九」金墨君(正根)朝鮮  宋暎運  『自由連合新聞』掲載

 …それから直ぐ一九二六年七月に日本に於て、アジアの弱力民族の大会が開かれんとした時に(ここの弱力民族会議は反動分子共のもので真の弱力民族を代表するのではない)彼は憤然その大会を粉砕すべく単身同様で長崎へ出発の準備を急いだが、遺憾ながら出発の前夜金子文子さんの死を伝える電報が届いた。同志等は驚いた。彼女がまさか、と自殺を信ずるものは一人もいなかった。彼は同志四、五人と布施弁護士と共に栃木刑務所へ赴いた。そして遺骨が布施氏宅へ着くや間もなく、遺骨紛失事件を起こし(遺骨は紛失したのではなく追悼会を催さんと同志の手によって持ち出されて、本を包んで遺骨のように見せかけ終に番犬共をがっかりさせた事件)彼は検束されたが、そのまま何の理由もなくして栗原、椋本の両君と共に朝鮮へ送られて了った。

 既に諸君が御承知の、これが、彼の最後を語る大邱の真友連盟事件である。お互いが消息通信や激励の手紙などなしたとの微弱な口実の下に、七人の同志は無闇に鉄窓の下で殺されて行かねばならなかった。斯様な横暴は植民地に於て更によく見られる現象ではあるまいか、吾々はそれを資本主義並びに強健社会の隠すことの出来ない裸体だと認める。事件は予審免訴にされたにも拘らず、検事は不満控訴をなし遂に七名の同志はそれぞれ懲役の判決があり、彼は五カ年の懲役を言渡された。大邱監獄に於て服役中彼は肺患に罹り一九二八年四月最早見込みなしと認めてか出獄を許され、父親に抱かれて京城の自宅へ帰ったのである。この時それを目撃した同志の話に依れば、彼は見苦しい程やせていてまるで骸骨のようで見るに忍びぬ哀れな姿だったと。家の周りはスパイの奴が二、三人目を張って厳重な警戒をしていて、同志友人等の訪問も自由にならなかったがそれから幾日ならずして彼は死を予知してかその同志を呼び「同志諸君に済まないよろしく」「達者で暮らせよ」「僕のオヤジを安堵してくれ」と三つの言葉を残して、多量の喀血をなし遂に彼は三九の青春を空しく終わった。と語っている。「ヂリヂリとやられるよりは、あっさり一思いに殺された方が…」とは彼が在りし日に残して行った言葉である。彼はその何れに依ってなされたろうか。犬一匹をも大事にする奴等が、何故人間を斯様に惨酷にせねばならぬか。この事実を前に何がくよくよ考えられるだろう。 

 彼は死んだ。然し彼の熱と真面目さは何ものかによって尚ほ生き彼の蒔いて行った種は永遠に朽ちることなく生長することを確信するものである。

★「叛逆者伝」洪鎭祐(朝鮮)栗原一男 『自由連合新聞』掲載

「……然し洪君は言語の不通が甚だしく運動の進展性を阻止することを痛感して、最初に鮮文アナルキ機関紙『民衆運動』を創刊した。けれどもそれは幾ばくもなくして廃刊され、直ちに彼は『自壇』の創刊に着手した。当時彼と親友であった朴烈君は『黒濤』を創刊し、つづいて不逞鮮人と解題し、現社会と改題し、最期の震災によって捕らえられるその日まで、雑誌『現社会』を世に送り、尚且つ黒友会の運動、更に次から次へと継起する労働争議、鮮人迫害事件等々々『彼の生存が如何にあづかって力あったかは、今日その枚挙に遑ないであろう。………

彼の東京に於ける最初の受難は朴烈君事件であった、市ヶ谷に一年病弱な彼はそれでも何時も元気に夕方になると高窓から首を出し合って漫談に時を過ごしていたし何時も快活で明るく、大半を読書と英文典に費やしていた、けれ共、そうしている間に既に病魔は彼を犯しつつ来たるべき第二次の入獄に彼をあほるべき運命にまで突進んでいた。十三年の真夏市ヶ谷を出獄するや彼は帰鮮した。そして在郷一年情熱家で熱烈な××精神に燃え立っている彼は、朝鮮のあの悲惨な農民の生活を目撃した時忍び難い公憤と、理想社会への憧れとは、病弱の彼の身を憩わせては置かなかった。在鮮同志を呼合した『黒旗連盟』は飢餓と絶望と倦怠のドン底にある京城の一角に猛然と運動を開始した。否!開始せんとした。けれど既に不穏?の策動を探知した当局は洪君、そうだ!あの情熱的で沈着な恰度、マハイロフの様な洪君が、貧のどん底にあって、日用の鍋二つと一個の釜を入質して郷里から京城に向け出発するや否や、彼を引捕らえて了った。在獄数ヶ月、黒旗連盟は同志十名により不穏な計画と運動に着手したとの理由で治安維持法により懲役一年を宣告した。服役中病勢昂じたために仮出獄すらした程であったが、残余刑数ヶ月を大田に送ることによって、彼は全く病魔の虜となって了った。

彼は事に臨んで常に沈着であった。そして聡明のきこえ高かった彼は、明確に認識するまではその相手から根掘り葉掘りして聴取した。その代わり自身の意見を陳開するにあたって、相手の理解するまで悟了する迄は、誠に彼は飽くことを知らない不撓不屈の性格抱持者だった。その彼のアルチュアを蒙った者は単に鮮人の同志諸君に限ってはいない。当時、黒友会、現社会、自壇等に関係を持った日人の中に、彼独特の論調と快活さをもって「権力及び力の問題」「相互扶助と生存競争の双連」等について彼一流の論議を聞かされなかった者があるであろうか。又時に臨んで剛毅な彼は、朝鮮キリスト青年会館に開かれた朝鮮問題演説会に不当な解散を詰問すべく司会者として壇上を領し頑として臨検の犬共を蹴飛ばした事実等は一面の彼の風貌を忍ばしめるに充分である。

 洪君  悩みと苦闘と、そして貧にまとわれる苦痛の生活、そのために生み出されたかの如き生活に終始し、尚お且つ、あの革命的熱情と理知的才能に恵まれていた彼その彼は遂に二度目の入獄によって生命を奪われなければならなかった。

 一九二八年五月十八日午後五時廿五分、京城大学病院の一室に、親友李箕泳君と彼の妹達少数の友人に護られつつ××戦線の曙のおもむろに白み行く時、然り三十二歳の血気盛りを、空しくも亦悲壮に消えて行った彼、彼のあの柔和でだが力と意気に充ち溢れたその声を、我々は再び耳にすることは出来ない。

 彼は逝いた。彼は再び還らない。

 けれど私は愚かにも彼の生前を追憶して彼の熱情と意気とを、もう一度偲び尚おこう、彼の還らざる魂を我等の現実にまで呼び覚ましたかったのである。(一〇.二二)」

★<布施辰治弁護士の報告『労働運動』、同志の報告記事『黒色青年』紙より>

 此の事件は治安維持法違反として、告発されているのであるが、側聞するところに依れば、本件はモヒ中毒の一浮浪青年の誣告に依って成り立った架空事件としか思われない。

 布施辰治は「被告人栗原一男、金正根、及び椋本運雄の真友連盟員に対し無政府主義に基づく新社会の実現の為暴力による直接行動を教唆煽動し、之をして暗殺破壊の協議をなさしめたり」と云う起訴をしたのが事件の内容である。

 布施辰治「被告人椋本運雄が大正一五年二月中前者と同様の目的を有する黒化社なる結社及び前示黒色青年連盟を組織したることの意見と、被告人栗原一男が大正一五年一月三一日夜に於ける東京市京橋区銀座通に於ける黒色青年連盟員の暴行障害等を為したる事件に付真友連盟に語りたること、及び、被告人金正根が、<真友連盟の設立は大正一四年九月二九日>真友連盟員に対し無政府主義実現の為には直接行動によらざる可化らずと告げ、又其趣旨の書面を申宰模に送り、被告人椋本運雄も同趣旨の書面を方漢相に送りたりとの事実と、前述被告人栗原一男、金正根の談話及び金正根が申宰模に送りたる書面……、被告人椋本運雄の方漢相に送付したる書面」とを綴り合わせて「被告人栗原一男、金正根、及び椋本運雄の真友連盟員に対し無政府主義に基づく新社会の実現の為暴力による直接行動を教唆煽動し、之をして暗殺破壊の協議をなさしめたり」と云う起訴をしたのが事件の内容である。

「直接的原因なる朝鮮真友連盟の爆破事件なるものの真相も、一モルヒネ患者の病的缺陥を奇禍とし、官憲がモルヒネ注射を交換条件として捏造的自白を強いたるものと伝えられている」『黒色青年』一〇号 一九二七年七月五日

『黒色青年』一九二九年七月一日、大邱における大衆的なアナキズム運動の動きを警戒した警察が治安維持法を駆使し椋本、栗原等を報復的にフレームアップ起訴したのが「真友連盟事件」のあらましである。

「長期の刑を終わり同志出獄す幸徳、真友両事件の人々」『自由連合新聞』一九二九.七.一

『自由連合新聞』四六号一九三〇年四月一日

 「真友連盟の同志等出獄」

何の理由も泣く検挙され、不法にも治維法を適用されて以来三カ年を獄中に送った真友連盟員諸君はその後続々と出獄中であるが、去る

★自殺した(?)金子文さんのこと『黒色青年』一一号 一九二七年八月五日発行

 大正十五年七月二十三日栃木刑務所の発表に拠れば、この日の未明監獄内は不気味な静寂に眠りつつある時、文さんは自殺して、永劫にぼく等から決別したと謂うのである。

 何が故の自殺であるか? その原因について、将又その真相に至ってはぼく等はここに発表し得ないのを遺憾とする。

 最後まで官憲の暴圧に抗争し、而しも自殺の数日前まで元気でいた文さんが、ふいと気まぐれな運命の戯れに取憑かれたと云ふなら、それは余りにも小説的な仮構である。

 とまれ、文さんは死んだのだ。貧乏と迫害に虐められつつも、雄々しく勇敢に支配者階級と戦ひ、自由連合の社会建設のために努力したぼく等の得難き同志文さんは居ないのだ。むざむざと敵の手に葬むられたぼく等の胸中は………屍を踏んでもと決心さすのである。女性としてではなく、一個の人間として叫んだ文さんは斯ふ云っている。

 「相手を主人と見て仕へる奴隷相手を奴隷として憐れむ主人、その二つながらを共に私は排斥する個人の価値と権利とに於て、平等観の上に立つ結束それのみを人間相互の間に於ける正しい関係として私は肯定する。」

 その文さんも斃れて今は居ない。



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# by futei7 | 2001-07-22 09:08

真友連盟事件・参考資料其の二

真友連盟事件・参考資料其の二

★朝鮮真友連盟事件 『労働運動』一九二七年第五次、掲載

栗原椋本両君連座事件の内容と経過

布施辰治 

 高官暗殺官庁破壊の大宣伝で、朝鮮の上下を驚倒した真友連盟治安維持法違反事件の発端は、予審免訴決定に依ると、当時「慢性モルヒネ中毒病に罹り居たることは、本件証人森本巌、谷重栄作、並びに佐藤傳吉の各証言、及び被告人安達得の供述に徴し明かなり」と云う被告安達得が、「右破壊団の組織に付窃盗横領等の犯行により司法警察官の取調べを受けて居たる際、犯行に関係無く、右破壊団組織の事実を供述したるに出づる」もので、其の経過は「同人を調べたる司法警察官に対し、安達得は、被告人鄭命俊が破壊団の宣言書一通を持ち行きたりとの事であった」と記述して居る。

 そして、其後の発展は、安達得の供述を信用した司法警察当局の「被告人鄭命俊に対する押収捜索並びに訊問の手続きを為すに至りたるものにして、其後他の被告人が右破壊団組織の事実を認むるに至ったものである」

 夫れに、警察当局が「各被告人の経歴若しくは後に明記せられたる犯行の序説として記載せられたるに過ぎずと認めらるる被告人栗原一男が、大正一四年六月中、無政府主義に基づく社会を建設することを目的とする自我人社なる結社を組織したること、並びに大正一五年一月中、同様の目的を有する黒色青年連盟なる結社を組織したること。被告人金正根が大正一五年一月中、同様の目的を以て黒友会なる結社及び黒色青年連盟を組織したる事、茲に、被告人椋本運雄が大正一五年二月中前者と同様の目的を有する黒化社なる結社及び前示黒色青年連盟を組織したることの意見と、

 處で、予審判事は、斯うした事件内容の起訴を(一)所謂破壊団の組織、(二)黒色青年連盟組織に分け、(一)の事実においては、「……右安達得に対する大正一五年九月一日付検事局尋問調書に、安達得は検事に対し本件関係人が、既決囚(当時安達得は既決囚として大邱刑務所に於て受刑中)を使嗾して真実の供述を為さしめざる様脅迫したりとの殆ど有り得可からざる事実の供述を為したる、記載あり、尚、安達得は、大正一五年三,四月頃栗原一男の大邱に来る前後、満鏡館において水害救済の講演不穏の言ありとて取り締りを受け、脱して被告人鄭命俊方に至りたるが、時恰も鄭命俊の父の誕生日に当たり居りたるが、其際、鄭命俊方付近にて朝鮮総督の暗殺を決議したりと供述せるも、右水害救済の事は、大正一四年七月中にして、真友連盟の組織は大正一四年九月二九日なり、又、鄭命俊の父の誕生日に相当する日、安達得の鄭命俊方に来たりたるも大正一四年陰六月一九日なりしことは、その後の取調べにより明らかなるが、要するに安達得の供述には明白なる矛盾を存す、既に右供述者が、自供の当時より慢性モルヒネ中毒症に罹り居り、且つ其供述に斯の如き矛盾の存する限り、同人の供述に基づき生じたる前示破壊団に関する事実の如きは他に何等的確なる証拠の存せざる限り遂に之を認むるを得ず』

と断案して免訴したのである。

 又、当の安達得氏は「抑も今回の事件たるや、不肖の痴愚なる無思慮より発生し其の類を諸氏に及ぼしたる罪で、吾等人間として法律上よりは暫く措き道徳上よりして到底免る々処にあらず、不肖日々煩悶する次第、先生に対しても殊更不面目此の上なく羞恥の至りであります」という手紙を寄越して居る。

 次に、(二)の黒色青年連盟等の組織に就いては、

「……被告人栗原一男の自我人社を組織し居りたる事実に付いては、其治安維持法第一条第一項に触るるものなることは明確にして、其他の金正根は椋本運雄等の結社組織の事実に付ては、其証據稍や明確ならざるものあるも之等結社の無政府主義を奉するものの集団なることは疑いを容れざる所、随て亦該結社組織の目的の那邊に在る矢も推知するに難からず、而市して、之等結社組織に付ては未だ当該犯罪地に於ても、治安維持法に触るるものとして訴追を為したる事無きが如く現に結社は存続せるところなるも、抑も治安維持法第一条は結社組織の目的が、苟も、国体の変革私有財産制度の否認に在る以上、他に何等此の目的に対する事実上の行為存在せずとも該犯罪成立に之を以て足るものと解釈す可く、亦斯の如きを処罰するに非ざれば結局該法制定の目的を達する能はざるものと謂う可し」

 と云う治安維持法論をして居るが、アマリにも明確を欠いた起訴状を不当とした予審判事は、

 然れれども……「今是等被告人に対する公訴事実を当審は右被告人栗原一男、金正根、及び椋本運雄に対する公訴事実は、同被告人等が、無政府主義に基ずく新社会実現の目的を達するためには暴行による直接行動を為す可き旨、真友連盟員に対し教嗾扇動したりとの事実の範囲を出でざるものと認むるを以て上記被告人三名の結社組織の事実は、正に法の正條に触るるものなりと雖も、之に付ては遂に公訴の提起無きものと認むるの外無きを如何せむ」

 とて残念ながら免訴の決定したものであるだから、検事が抗告したのかも知れず、又それだから抗告裁判所では

「被告人栗原一男は東京市内に於て、同志松永鹿一、小泉哲郎、古川時雄、井上新吉等と共に無政府主義的運動を目的とする結社《自我人社》を、被告人椋本運雄は同じく東京市内に於て深沼弘胤、麻生義、前田淳一等と共に同一目的を有する《黒化社》なる結社を組織し、又被告人金正根は朴烈こと朴準植が組織したる無政府主義的結社なる《黒友会》に加盟し、朴烈下獄の後は其の首領として現に同会の牛耳を執りたるが、同被告人等は相謀り、汎く全国に於ける無政府主義的思想の懐抱者を結合統一して其の目的とする理想社会の実現運動を促進せしめんことを企画し、大正一五年一月中、右被告人等の組織せる自我人社、黒友会、及び黒化社を中心として、黒旋風社、解放戦線社、自由労働運動社、関東労働組合連合会、其他各地の無政府主義傾向に在る団体を糾合して黒色青年連盟なる一大結社を統合し、其の本部を東京市内に置き爾来被告人等は主動の位置に在りて不穏文書の配布、通信集会協議、其他の方法に依り同志間に於ける連絡を密接ならしむると共に其の目的達成の為には騒擾暴行其の他生命身体又ま財産に危害を加ふべき犯罪を暗示せる所謂破壊的直接行動に依るの外なき旨を以て内地並に朝鮮に於ける同志を激励煽動し居りたるものなり」

 と決定して、前の免訴を取消し、更めて公判に附したのである。

朝鮮大邱に於ける真友連盟の事件の真相は以上布施氏の報告によって尽くされている。我等の同志に加へられつつあるこの強暴なる迫害に憤起した黒色青年連盟は、去る6月23日及び7月4日、朝鮮総督府東京出張所並びに司法省に殺到し、次の抗議書を突きつけて同事件の関係者の即時釈放を要求した。  

抗議書  

現在、朝鮮大邱府大邱刑務所に捕われつつある同志椋本運雄、栗原一男、金正根の三名は大正15年8月、朝鮮官憲の依頼により警視庁より護送されたものである。該検挙の理由は、予審決定書の示す通り、只無政府主義者を抱懐するという実に根拠薄弱なものであり、且つ直接的原因なる朝鮮真友連盟の爆破事件なるものの真相も、一モルヒネ患者の病的缺陥を奇禍とし、官憲がモルヒネ注射を交換条件として捏造的自白を強いたるものと伝えられている。而も此の事件は、第一回予審に於て免訴となり、検事控訴により覆審院に廻付され、改めて10年の求刑を受けたものである。

 万人が等しく此の事件を捏造的事件であると見做しているにも拘らず、独り官憲のみが何等かあるものの如く取り扱ふは、必ずやそこに何等かあるものの如く取扱ふは、必ずやそこに何等かの魂胆があってのことは明らかである。尚又、現在台湾にこれと略同様の困危に遭遇しつつある黒色連盟事件がある。  我等は飽まで此の不法監禁に反対すると同時に、両事件の同志全部の即時釈放を茲に要求する。

                                                            昭和2年6月23日   黒色青年連盟

★<金君の訃>六月一五日附 『自由連合新聞』掲載

 先に報道した朝鮮大邱に於ける真友連盟事件のために、無実の罪を負わされて五年の刑を受けることになっていた、同志金墨君は肺患重って貴付出獄で京城の父君の許に静養していたが、病勢あらたまり、<一九二八年>八月六日終に逝いた。

…… R君よ!朝鮮衣服のの事は実に有難く思います。実は僕の朝鮮衣服は京城の父親宅から送って貰って、今まで着ています。君から来た着物は、椋本、栗原両君の中で誰にでも入れてやる積もりでいたのです……。

 矢張り通信不自由で、こちらから出すには、何らかの理由を附なくては、特別の許可が出ない訳である。受ける方の手紙は比較的にいいようですから、誰でも手紙は読みたいですから、お頼みします。

 それは日本の社会運動-労働運動や無政府主義運動は、縮めて言えば、恰度××××不徹底な人間である。

 だから、メーデーを千番やっても、労働組合を万組作ろうが、或いはコミュニストが百万人になったとて、それが何に役立つのであるか?こうしたことを長々と言いたくもない。それは僕自身が×××であるからである。

 僕はこうした一切の欺瞞的な運動を軽蔑し排斥する。(四、二五)



★ 「真友連盟の同志等出獄」  『自由連合新聞』四六号一九三〇年四月一日

何の理由も泣く検挙され、不法にも治維法を適用されて以来三カ年を獄中に送った真友連盟員諸君はその後続々と出獄中であるが、去る一月二十四日と二十五日に馬鳴、禹雲海の両君は元気で出獄した。目下大邱の自宅で静養中であるが伝うるところに依れば、馬君は約一週間前、犯人逮捕を妨害したとかで再び「公務執行妨害」とういうイイ加減な罪名で検挙されている由。



略クロニクル

1926年8月、検束 真友連盟治安維持法違反被告として大邱に送られ 絶食抗争

1927年3月7日、一旦予審免訴の決定 執拗な検事の抗告

5月12日、予審免訴取り消し、公判に附する有罪決定

5月26日、公判

6月9日、公判

6月14日、公判

6月25日、決定言い渡し

警察当局

栗原一男 1925年6月、自我人社組織 1926年1月、黒色青年連盟組織、

金正根 1926年1月、黒友会、黒色青年連盟組織、

椋本運雄 1926年2月、前者と同様の目的、黒化社、黒色青年連盟組織

水害救済の事は、1925年7月中にして、

真友連盟の組織は1925年9月29日なり、

また、鄭命俊の父の誕生日に相当する日、安達得の鄭命俊方に来たりたるも1925年陰6月19日なりしことは、

その後の取調べにより明らかなるが、要するに安達得の供述には明白なる矛盾を存す








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# by futei7 | 2001-07-21 09:12

アナキズム文献・運動史 7  朝鮮人アナキズム運動

アナキズム文献・運動史 7 朝鮮人アナキズム運動 

 この国において、朝鮮人アナキズム運動に関する《通史》は空白である。

朝鮮におけ るアナキズム運動、日本帝国主義本国における朝鮮人アナキズム運動、

中国における朝 鮮人アナキズム運動、米国ロサンゼルスにおける朝鮮人アナキズム運動と、

朝鮮のアナ キスト同志たちは、苛烈な彈壓下、各地でアナキズム革命を志し活動を繰り広げた。     

そして闘いの中に斃れ、日帝の官権に捕われ、監獄に送られ、獄死し、

或いは、日帝 の走狗の裁判官に裁かれ、絞首台に立たされた同志もいた。

 帝国主義権力者だけではなく、権力のスパイ、民族主義者、共産主義者たちとの命を かけた闘いもあった。  

公然たる社会運動の団体であっても治安維持法下で「秘密結社」とされ活動家どうし が

顔を合わせただけでも検挙され、デッチ上げ弾圧が横行していた状況では、

活動の記 録はもちろんのこと、機関誌紙の保存も不可能であっただろう。

残されている一次資料 は殆どないと思われる。    

在日本の運動に関しては比較的、記録が残され証言もあり韓国において研究もされ、

運動史、論文として刊行されている。

韓国においても1978年、94年に『韓国アナキズム運動史』が刊行され、すでに韓国語から、

一部を翻訳した仲間がいるがその成果は充 分に生かされている状況にはない。     

1910年、朝鮮への日帝による最終的な侵略と共に、幸徳ら無政府主義者、

社会主義者 の活動の封じ込めを本国内では企図した。遡れば日帝統監府による政府の

支配は1906年 であり、日本におけるアナキズム運動史を語る時代は朝鮮への侵略史と

重なるのである。 数少ない文献のなかで、朝鮮人アナキストの活動に継続的に触れているのは

『自由聯 合』紙である。『自由連合』の紙面の記事を読むと、朝鮮人アナキストとの密接な活動が

うかがえる。共に行動していたのである。自連・自協の対立の運動史のなかで埋没させ てはならない。  

秋山清や小松隆二は、『日本の反逆思想』『日本アナキズム運動史』と運動史の範囲を

〈日本〉と自ら縛ってしまい、朝鮮人アナキストの運動を位置付けられず、付加的な視 点でしか語ろうとしない、

いや語っていない。「日本人」には語る資格がないと判断して しまったのであろうか、朝鮮人のアナキズム運動は

朝鮮人によってのみ語られるべきとい う判断を持っていたとしたら間違いである。   

近藤憲二が『〈私のみた〉日本アナキズム運動』では朝鮮の同志に関して項目をたてて、

述べている。大澤正道は『戦後日本のアナキズム運動』で、解放後の韓国アナキズム運動 を

在日朝鮮人の機関紙からではあるが概略を記述している。向井孝は『墓標のないアナキ スト群像』で

朝鮮ではないが台湾の同志から記述を始めている。

運動史との関連でいえば 不充分ではあるが、現実の運動の記述しようと思えば触れざるを得ないのである。  

朝鮮人アナキズム運動を弾圧していたのは日本帝国主義の権力である。

上海の活動であ っても、長崎の監獄に囚われ、日本国内の裁判所で裁いている事実がある。

日本のアナキ ストが共に闘っていたのは運動史において歴然としている。

筆者自身も、昨秋、李さん、 金さんと出会った時は朝鮮人アナキズム運動はほとんど

把握していなかった。李さんが探 索していた機関紙誌のリストをみせられても全く解からなかった。

1920年代からの朝鮮人 アナキズム運動を運動史の「空白」にしてしまうのではなく、

可能な限り明らかにしてい きたい。その始めとして『自由聯合』紙の見出しをリストにする。 

 

《自由連合》紙に掲載の朝鮮人アナキズム運動関連記事  発行号数・年・月・日

「朝鮮自由労働者組合の生まれた理由」朝鮮自由労働K生  11号 1927・4・5

 

「生かすか?殺すか?朝鮮民衆を!」朝自 金濟元   

「朝鮮に於ける最初の自由労働組合 労働者自由同盟結成さる  去る9月8日朝鮮元山港にて」

「会報欄 朝鮮自由労働者組合 9月13日 被○○追悼  挙行 検挙者27名 拘留4名……」 17号 1927・10・5 

 

「朝鮮総連盟の醜態 青山憲兵分隊の鮮人壓迫」  18号 1927・11・5

 

「全国労働組合自由連合会 第2回大会提出議案

  一 朝鮮自由連合派緒団体との提携の件        (朝鮮自由労働者組合)

  一 植民地労働者に宣伝及組織運動促進の件     (泉州純労働者組合) 植民地、朝鮮・台湾・琉球   

  一 在日朝鮮労働組合自由連合会組織の件       (朝鮮自由労働者組合) 22号 1928・3・5

 

「朝鮮自由の近況」  25号 1928・6・27

 

「政府の手先たる相愛会を撲滅せよ 警察黙許の下に行なわれる鮮人同胞への残虐」  29号 1928・10・1

 

「暗黒裁判で上海の同志投獄 伝えらるる脅迫未遂事件と虚偽の爆破事件 白山秀雄、赤川啓来、武良二、李錫圭 君ら」 31号 1929・1・1

 

「太平洋沿岸の労働者による 東方無政府主義者連盟 日本官憲の迫害、支、鮮、 の同志逮捕」

「暴壓と闘い同志を救え! 上海事件の断罪に抗議せよ!」 32号 1929・2・

 

「叛逆者伝 洪鎭祐 朝鮮」栗原一男

「鉄道工事の鮮人労働者 大挙襲撃」

「斬込事件の同志等を刑務所に訪ふ」 41号 1929・11・1

 

「民族的差別に抗して全鮮学生起つ」 42号 1929・12・1

 

「東興労働の忘年会 禁止さる」

「朝鮮黒色大会事件続報 捕われた柳君 遂に国外追放さる」

「借家人同盟はボルの金儲 朝鮮の同志等反対」

「昌原黒連の同志等 元気で出獄」 43号 1930・1・1

 

「全鮮に漲ぎる 反抗の波動!学生、労働運動の激化」 

「平壌靴工組合黒色化表明に 警察狼狽す」 45号 1930・3・1

 

「朝鮮の同志に彈壓頻々と下る 我等の手で防衛せよ」

「投獄された儘の黒戦社の同志」 「江原道の秘密結社事件」

「在米同志等 黒聯を結成し 全米に活躍す」 46号 1930・4・1

 

「日本帝国主義の手先が 東方聯盟員を死刑 更に強固な国際的提携へ」

「南支在住の鮮人青年聯盟 宣言と綱領を発表」

「メーデー後 朝鮮同志に迫害 固き結合で奪還へ」

「学友会斬入事件の同志出獄」 47号 1930・5・1

 

「北満州を震がいせる 山市事件の真相 我が韓族總聯合會保安隊は、

同志金佐鎭君を 暗殺せる強権の走狗高麗共 産黨幹部両名を逮捕して死刑に處せり!」

「民族運動の誤謬を正せ」冬木耕太

「叛逆者傳  金墨君(正根) 朝鮮 宋暎運」

「鶏林八道を覆う 暴壓・搾取・反動に 嵐を衝いて同志は起った 朝鮮各地より最近の情報」

「官憲がデッチ上げた《秘密結社事件》忠北道陰城の彈壓」

「北鮮に生まれた二つの聨盟」

「農村への宣傳にに努めた 江原青年聯盟の同志金、劉君 捕まる」

「強権新聞撲滅に 同志の直接行動 遂に大争闘起る」 

「瑞川同志の手に依る 社会生理学研究所創立」

「言語に絶する 朝鮮製糸女工の生活 自州支局の活動で 反抗運動の烽火挙がる」

「熾烈に捲き起こる 朝鮮の黒旋風 瑞川地方の最近情勢」 48号 1930・6・1

 

「朝鮮黒色運動略史」

「米全土を席捲したる 黒色運動の烽火! 黒風社同志の 決死的活躍」

「激化し来る 朝鮮の解放運動! 忠北地方を中心に同志 数名検挙さる」

「瑞川に靡く黒旗 赤色の妄動を一蹴して 新興青年聨盟 の結成へ」

「狂暴極まる 支配階級の壓迫」

「《黒戦社》の同志 予審終結」

「朝鮮の同志 2名捕はる 北京で天津總領事館警察の手に」 49号 1930・7・1

 

「言語につくせぬ朝鮮農民の窮迫 日本資本主義の露骨な暴壓に奮起はもう時間の問題」

「憤激した二千名 郡廳と警察を襲撃 朝鮮咸南瑞川郡の民衆が過酷なる誅税 に対し」

「金佐鎭君の《社会葬》挙行 中国中東線山市站にて」 50号 1930・8・1

 

「日韓合併の記念日に際し ビラ二千枚押収さる」

「北朝鮮に 安州黒友會創立さる」  51号 1930・9・1

 

「植民地政策の毒刃に 同志3名起訴さる 強権主義新聞《朝鮮日報社》との衝突事 件で」

「反動分子を膺懲す 韓族聯合會の同志活躍」

「地方通信 朝鮮」  52号 1930・10・10

 

「朝鮮徳川黒友會 警利吏に蹂躙さる 創立後僅か3日にして 秘密結社処分で」

「地方通信 朝鮮から」  54号 1930・12・10

 

「朝鮮同志の殉難 官憲がデッチ上げた 濟州島秘密結社事件」 55号 1930・1・10

 

「北鮮安州で 強権排撃」

「同志を奪はれつ大飛躍《アナルキスト青年聯名》」

「赤色の魔手に殺れた 故金君追悼講演會 白色テロ暴壓に依って禁止」

 

「地方通信 朝鮮」  56号 1931・2・10

 

「朝鮮同志の上に強権の乱舞 各方面で続々検挙」 58 号 1931・5・10

 

「萬寳山事件の真相批判演説會 直ちに解散さる」

「羅州警察署の暴挙 同志7名投獄」  60号 1931・7・10

 

「満蒙の暗雲と支配者の凶刃 萬寳山事件を通して 強権亡者の悪逆」

「東方労働者聯盟 躍進す 日の出亜鉛の差別撤廃争議勝」

「南鮮地方の彈壓策」

「彈壓拘留中の朝鮮同志 9名出獄する」

「軍備縮小の芝居 満鮮兵力の増加 全民衆はこの事実に備えよ」  61号 1931・8・10

 

「朝鮮農民 各所に蜂起 窮乏の生活を脱し 一路自主革命へ」

「血潮は黒し 同志の屍 狂ふ反動の凶刃」

「在満同志に大彈壓」

「自聯短言 朝鮮同志」  63号 1931・10・10

 

「騒然たる鶏林八道 爆弾至る所に飛び 急迫せる民衆の蜂起」

「叛逆しつつある 植民地被壓迫民衆 民族主義を倒せ!」 65号 1931・12・10

 

「全鮮を染めつつある 被壓迫民衆 解放の血潮」 66号 1932・1・10

 

「相愛會撲滅に 在日同志蹶起 日鮮融和を看板に 公然 私刑を敢行」

「朝鮮 清津 同志の活躍」 68号 1932・3・10

 

「朝鮮同志の活動 流血の闘争相つぐ 各仕事場に跳梁したるボル 全く影を潜む……」 70号 1932・5・10

 

「朝鮮自由にボル泣き込む 一蹴されてスゴスゴ退却」 

 

「武装官犬と 大乱闘を演ず 神田東興同志襲撃事件」 73号 1932・9・10

 

「全鮮に活躍の同志捕はる 治維法で最高6年求刑」 79号 1933・4・10

 

「ファッショ化官憲 朝鮮兄弟へ蠻行 民族主義的暴行を蹴散せ」

「留置場一束 丁讃鎭君(朝鮮東興労働同盟員)」 82号 1933・7・10

 

「水害の惨状 飢餓と病魔と戦ふ 南朝鮮の同胞を救へ」

「狂暴朝鮮治下に 暗躍の同志 治維法で送局」

「上海爆弾事件 朝鮮同志3名 日本に移送さる」 83号 1933・8・10

 

「戦線整備闘争下に 朝自解散し 江東橋登録者協力會結成さる」

「黒戦社事件の同志 呉康鉉君 満期出獄」

「獄窓の同志に 温かき手を差し伸べろ!」 84号 1933・9・10

 

「獄窓から 元心昌」 85号 1933・10・10

 

「李乙奎君の出獄」 86号 1933・11・10

 

「この暴壓を見よ! 元、白両君無期懲役 上海爆弾事件 暗黒裁判」

「積極的に歳末闘争 その先頭に立つ 自聯 自協 東興」

「呉致燮君逝く」

「学友會事件判決 金君に懲役5年」 87号 1933・12・10

 

「搾取の強化だ 朝鮮小作令の実施 日鮮農民の団結へ」

「学友會事件公判3月1日開かる」

「元気横溢して 同志続々出獄 湖西銀行事件と済洲島黒化事件」 89号 1934・2・10

 

「上海爆弾事件の同志 白貞基君を回想す 楊子秋」

「隷属と混乱の民族主義 危機打開は無政府主義のみ」 91号 1934・6・5

 

「上海爆弾事件の同志 李康勳を想ふ 南京楊子秋」

「最近に至る 在中国朝鮮 無政府主義の概況 上海林友」 92号 1934・7・5

 

「上海爆弾事件の同志 元心昌傳 梁一東」

「水魔に悩む 南朝鮮 救援の手をさし延べろ」 93号 1934・8・5

 

「朝鮮一般 再建闘争」

「鐵窓一束 梁一東君(朝鮮東興労働同盟員) 全寒村君(土民社) 李東淳君、洪君(黒色新聞社)」 94号 1934・9・15

 

「梁相基君出獄」 95号 1934・10・28  

 

以上が記事の全てである。主要な事項、彈壓の内容に関しては順次紹介していきたい。

 

《ソウルで出版された通史》  

続いて現時点で仲間により翻訳され、未刊行の運動史の目次を紹介したい。  

 

『韓国アナキズム運動史』 前編(8・15以前)

無政府主義運動史編纂委員会編 1978年1994年 蛍雪出版・ソウル

 

第1章 胎動期 1920~24 3・1運動後から朝鮮革命宣言と大逆事件が起こるまで

第2章 組織期 1925~30 散発的組織から連盟体の結成に至る時期第

第3章 戦闘期 1931~45 満州事変、日中戦争、太平洋戦争に連結される時

第4章 (註・大逆事件は朴烈、金子文子らへの弾圧・第2章は翻訳準備中)  

 

『在日朝鮮人アナキストたちの組織と活動』 李浩竜著         

韓國學報第91・92合輯 別冊

目次

巻頭言

1 思想団体  黒友会・黒友連盟の結成と活動黒友会黒友連盟  その他  地方朝鮮人アナキストたちの組織と活動 

2 アナキスト労働運動の展開 労働運動への進出  純正アナキズムとサンジカリストとの対立と統合

3 秘密結社運動  日本無政府共産党への参与  建達会の結成  結語

2001.5.9                  

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# by futei7 | 2001-05-09 05:51